キリリク - No4

熱帯夜
あちらこちらから笑い声が上り、杯を手にした多くの人間が酒を酌み交わしている。
ここは成都から遠く離れた南蛮の地。
長い戦いの末、南蛮の王孟獲を臣従させることが叶い、蜀は南の地を手にするに至った。
今はその祝宴の最中である。

場が一段落して来た頃を見計らって、酒と杯を手に馬超は庭へと出た。
むっとするような湿気を含んだ暑さ。
何をせずとも汗がじっとりと滲んでくる。
木に背を凭せ掛け、馬超は何をするでもなく、星空を見上げ持ち出してきた酒を杯へと移し呷っていた。

しばらく経った頃、
「孟起」
名を呼ばれ、視線を移せば、目の前には不機嫌そうに眉根を寄せた趙雲が立っていた。
「お前…このような所で何をしている?」
「何って……星を見ながらの一献というのも乙なものだと思ってな」
どこかおどけた口調の馬超に、趙雲は溜息を落とし、肩を竦める。
「お前がそのような風情のある男だとは思わなかった。
お前が知らぬ間に宴を抜け出したおかげで、私が張飛殿の酒の相手をする破目になったではないか」

あの自他共に認める酒豪の相手だ。
相当飲まされたのだろう。
いつもは大抵馬超がその役目を仰せつかっているのだが。
月明かりに照らされた趙雲の顔はほんのり赤く染まっていた。

しかし。
「酔っているのか?」
そう問えば、
「まさか」
と趙雲は鼻で笑う。

その外見に似合わず、趙雲は酒が強い。
酔いつぶれてしまったところなど、馬超は今まで見たことがない。
肌は薄く誘うように色付いていても、決して酔ってはいないのだろう。
結局の所あの張飛よりも趙雲の方が底なしなのではないかと馬超は踏んでいる。

「初めてお前と会った時を思い出すな。
俺が蜀に降った折に開かれた宴であったな―――こうしてやはり一人外に出ていた俺にお前が声を掛けてきた」
「ああ…そうだったな」
馬超はその時のことを思い返して、思わず笑みを漏らした。
「あの時のお前は、今と違ってえらく優しい微笑を浮かべて俺に話しかけてきたな」
「今と違っては余計だ。
私は今も昔も至極穏やかで優しい人間だぞ」
趙雲は心外だと言わんばかりに、馬超を睨みつけた。

だがその言葉の端々に楽しさが見え隠れしていることを、もちろん馬超は気付いていた。
こうやって言葉遊び的な会話が二人は好きだった。
「よく言う…。
あの時も顔は優しげだったが、目は全然笑っていなかったぞ。
随分冷めた目をしていたくせに」
「嫌々だったからな。
殿が一人外に出たお前を気遣われて、私に様子を見てきて欲しいと仰るから……渋々だった。
何と面倒な男だと思ったものだ。
幼子ではあるまいし、降ったからとは故、皆の和を保つということができぬのかと…な」
悪びれもせず、趙雲はさらりと言ってのける。

「相変らず、ずけずけとものを言う奴だな、お前は」
馬超は呆れたように小さく息を吐く。
「お前だからだ……孟起」
趙雲に間髪入れずにそう返されてしまい、馬超は苦笑するしかない。

馬超相手にしか本心など見せない―――そう暗に告げているのだ。
意識してのことなのか、そうではないのか。
普段は睦言のひとつも口にはしないのに、こうして時にあのような台詞をさり気なく口にする。
これが趙子龍という男。
馬超を捕らえて離さない―――青い龍だ。





本当は蜀に降ったあの宴の夜、その場を抜け出したのは熱気のためか室内が暑く、少し涼むだけのつもりで外へ出ただけのことだ。
蜀の面々と交流する気がないとか、降ったことを後悔しているとか、そういう気持ちは全くなかった。
そんな気持ちであったのなら決して降ってなどいない。

髪や瞳の色で近寄りがたいと思われることはあっても、馬超自身人付き合いを厭ったことはない。
男でも女でもそつなく誰とでも付き合える人間だった。
仮にも太守の息子であったのだ。
そのようなことが出来ずして人心を掴むことはできない。

だからあの時も少し涼んだら、すぐに戻るつもりだった。
けれどその前に声を掛けられたのだ。

「よろしければお付き合い頂けるか?」
酒瓶を眼前に掲げ、柔らかな微笑を湛えた端正な顔立ちの男がそこにいた。
だがその表情とは対照的に、闇を思わせる漆黒の瞳は冷たさを宿してた。
そしてその奥にまるで獲物を見定めるかのような鋭さがあることを、馬超は見てとった。
少しでも気を抜けば、喉元を喰い破られそうだ。
美しくたおやかな外見とは異なるその瞳が印象的だった。
そして何よりこの男の持つ雰囲気―――研ぎ澄まされ、触れれば切れそうな程の気を感じる。

「謹んでお受けいたそう。
して…貴殿の名は?」
「趙子龍と申す」
返された答えに、馬超は別段驚きはしなかった。
その名はもちろん知っていたのだが。
曹操率いる大軍の中を、和子を抱きただ一騎で駆け抜けた猛将。

やはり…という思いだった。
あのような気を纏った男がただの武官や…ましてや文官とは到底思えない。

「そうか、貴殿が長坂の英雄か。
お会いできて光栄だ」
馬超が敬意を込めて拱手すると、趙雲はやや目を瞠る。
さも意外だという風に。
「驚かれぬのだな。
これまでだと必ず、冗談にされるか笑われるか、どちらかだった」

趙雲の言わんとしていることは分かる。
恐らくその容貌からはとても彼があの猛将だと想像はつくまい。
容貌を讃えられることは女ならば喜ばしいことだろう。
だが武人にとって、武ではなく容姿を讃えられたとて、それは屈辱以外の何ものでもないだろう。

「貴殿の瞳…そしてその雰囲気を感じれば、優れた武将であることは分かる。
貴殿を笑った者達は、そんなことも見抜けぬ愚か者だったというだけのことだ」
すると趙雲は笑った。
楽しげに双眸を細め、声を上げ、今度こそ本当に。





気が付けば趙雲の腰に腕を廻し、馬超は己の方へ彼の身体を引き寄せていた。
その拍子に趙雲が手にしていた酒瓶が地面に落ち、割れた。
しかし趙雲は身じろぐこともせず、ただまっすぐに馬超を見つめていた。
楽しそうに。
そして馬超を試すように。

「俺は貴殿が気に入った…いや、魅入られてしまった―――趙子龍という存在に」
その瞳を逸らすことなく、真摯に気持ちを告げる。
「……生半可な覚悟ではあるまいな?」
「無論」
この男に半端な気持ちで近付けば、命を落す。
それが分からぬ馬超ではなかった。

馬超の答えに満足したのか、趙雲は不敵な笑みを口元に刻んだ。
「面白い。
私を退屈させてくれるなよ、馬超殿。
興醒めしたらそこまでだ。
その時は貴殿の命で贖ってもらうぞ」

そして交わした口付け。
それが二人の始まりだ―――





あの時もし外に出なければ、今の関係はなかったのかもしれない。
まだまだ己の持つ運も捨てたものではない……心の中で嘯く。
それを知っている訳でもなかろうに、目の前に立つ趙雲はあの日と同じように楽しげに馬超を見つめている。
心の内をまるで見透かされているようだ。
けれど馬超は悪い気などしなかった。
それでこそ思えば初めて心の底から手に入れたいと思った存在だ。

風が二人の間を吹き抜ける。
熱気を孕んだ風が。

「暑いな…」
趙雲がぽつりと呟くと、馬超が趙雲を抱き寄せた。
あの出会いの日と同じように。
「俺が酔わせてやる。
このような暑さなど忘れ去るくらいに…な」
言うなり、馬超は手にした酒瓶から口に酒を含み、趙雲に口付けた。
口移しにされたその酒を、趙雲が飲み干すのを感じると、馬超は一度唇を離す。
そうして視線を絡ませあった後―――
どちらからともなく再び唇を重ねた。





夜の帳の中で、暑さはやがて熱さへと形を変えていくのだった。






written by y.tatibana 2004.01.31



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