キリリク - No1 |
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目を開けると、辺りは闇だった。 まだ夜明けは遠いらしい。 ドクン…ドクン…… 耳を打つ規則正しく繰り返される鼓動。 自分を胸に抱き込んで眠る男。 暗闇でその姿を見る事はできなかったが、彼の美しい金の髪やその整った顔立ちが自分には闇の中でも分かる気がした。 ドクン…ドクン…… 力強いその響きは、彼そのものを現しているようで―――。 眠る彼を起こさぬよう、ゆっくりと身を起こした。 何も身に纏ってはいないその体が夜気に晒され、肌寒さに微かに体が震えた。 先程までは寒さなど微塵も感じなかったというのに。 ―――それだけ彼の腕の中は暖かかったのだろう。 微かに聞こえる水音と、湿った空気。 どうやら外は雨が降っているようだ。 静かに寝台から降り、立ち上がると、身体全体を包む倦怠感と腰の鈍痛に思わずよろめいた。 体勢を立て直し、軽く吐息を吐くと、足元の白い薄衣を拾い上げ身に纏った。 そのまま真っ直ぐ暗闇の中を進み、中庭へと続く戸に手を掛ける。 開けた僅かな隙間に身を滑り込ませ、すばやく戸を閉めた。 しとしと…と静かに降り注ぐ雨。 そのまま誘われるように雨の中に静かに足を踏み出した。 そうして空を仰ぐ。 雨が髪を…顔を…体を濡らしていく。 この雨は自分の中の罪を洗い流してくれるだろうか―――? 祈りにも似た気持ちで目を閉じる。 すると浮かぶのは先だっての戦の風景。 戦場から程近い小さな村も巻き込んでの戦になった。 多くのものが死んだ。 兵も民も。 自分も多くのものの命を奪った。 それが武人としての自分の務め―――。 武人としての自分を後悔した事などない。 けれど…、命を奪うというその行為に罪悪を感じないのかと言えばそうではない。 戦の後には悪夢に苛まれていた。 自分では意識するまいと心の外へ追いやっていた罪悪感が、戦の後には必ず形を成し、悪夢となって甦るのだ。 何日もまともに眠れぬことが多々あった。 ―――その夢を見なくなったのは、彼と関係を持つようになってからだ。 最初に彼と関係を持ったのは、彼が蜀に降って初めて共に闘った戦の後だった。 成都への帰還前に、拠点となった城で過ごす最後の夜。 いつものように夢に眠りを妨げられ、夜風に身を晒す為に部屋を出た。 回廊を歩いている時、反対から歩いてくる彼と出くわした。 彼は自分の姿を認めると、薄っすらと笑みを浮かべた。 「このような時間にどうかなされたのか?」 問いかけに、僅かに首を振る。 「―――何も…。 ただ夜風に当りたくなっただけです。 貴殿の方こそどうされたのか?」 「少し明日の帰還の準備に時間を取られたものでね。 今から部屋に戻ってようやく寝るところですよ」 「そうですか…それはお疲れのことだろう。 お引止めして申し訳ない。 では、失礼する」 そう言って脇を通り過ぎようとした…だが腕を捕まれ阻まれた。 そのまま強い力で引かれ、あっと言う間に彼に抱きしめられていた。 「…何をする?!」 「貴公が今どのような顔をしているかご存知か? まるで幼子が親と逸れてしまったような…そのような頼りなげな表情だ。 とても普段の貴公からは想像もつかぬような」 「何を…無礼な! 放せ!」 「何故そのように虚勢を張る? 我らは人形ではない。 体に傷を負うのと同様に、心にも傷を受ける。 体の傷なら誰の目から見ても明らかだが、心の傷は目に見えぬ分厄介だ。 内に押し止めておくことなど美徳でも何でもない。 鬱積した膿はやがて心も体も蝕むだろうから。 悲しいのなら、辛いのならそれを吐き出してやれば良い。 どうしても吐き出せぬのなら、人に寄りかかってみるがいい。 人の肌は暖かい…その温もりを求めることを誰が責められる…。 それが心を癒してくれることもあろう」 彼から逃れようしていた体から力が抜けた―――。 彼は一族を殺された。 妻や子供の亡骸は彼の眼前に投げ落とされたのだと聞いた。 それでも彼はこうして何に臆する事もなく生きている。 彼もまたその悲しみや怒りを吐き出すことで、様々なものを乗り越えてきたのだろうか。 強い男だと思った。 心の内を曝け出すことは、傷つく事を恐れる弱い者には決して無理な事だと思うから。 静かに降りてくる彼の口付けを拒むことはしなかった―――。 あれから戦の後には、必ず彼は自分を抱く。 例え彼が戦に出ていなくとも、自分が戦に出た後には必ず。 気を失うまで体を貪られ、夢を見る事もなく彼の腕に抱かれて目を覚ます。 悪夢は見なくなった。 けれど、やはり罪悪感は消えない。 いくら大義の為だと御題目を唱えてみても、それはただ自分を正当化してるだけのようで。 それでも決して劉備に仕え、漢王室を復興させることに迷いを抱いている訳ではない。 これからも自分は戦場を駆け、自分が倒れるその時まで、命を奪い続けるのだろう。 そのジレンマに苦しむ。 ふいに―――、 雨に濡れた体が温かさに包まれた。 閉じていた目をゆっくり開け、肩口を見遣った。 後ろからそっと掛けられた厚手の着物。 今日彼が身に付けていた物だ。 後ろを振り返れば、彼が立っていた。 「雨の中そのような薄着で…。 風邪を引くぞ、子龍」 「そんな柔な体ではないさ、孟起」 微かに笑って見せる。 暗闇の中その表情ははっきりと伺い知れなかったが、彼がむっつりとしているのが分かる。 「何を考えている?」 「…何も…と言っても納得してはくれないのだろうな。 …この雨が私の罪を洗い流してはくれぬかと都合の良いことを考えていたのだ。 雨で洗い流せる程、私の血塗れの身体は易くはないというのに。 あまりにも多くの血を浴び過ぎた―――」 「洗い流す必要などない。 命を奪い奪われる我らにとって、罪は常に付きまとう。 それは忘れてはいけない痛みだ……。 ―――だが、今生きているのは我らだ。 罪に縛られて、陰鬱と生きていくなど馬鹿馬鹿しい。 罪悪が心に住み続けても、それに縛られるな…子龍。 今の自分に後悔がないのなら、後ろなど振り向かずに自分が信じるものの為突き進むがいい」 なんと自己中心的な男だろう。 けれどこれが馬孟起という人間なのだ。 彼の言うように自分は簡単に思い切れない。 だが…何故か心が軽くなる。 彼はそうやっていつも自分を心の闇から救い上げてくれるのだ。 自身でも気付ないうちにその闇に捕らわれてしまっている時でもさえも―――。 「来い、子龍」 言うや否や、彼の手が腰に伸び、そのまま引き寄せられた。 「…すっかり身体が冷え切っているではないか…。 一体いつからここにいた?」 彼の手で雨で額に張り付いた前髪を掻きあげられた。 間近で自分を見つめる強い光を湛えた瞳。 その瞳を見つめ返しながら、常々疑問に思っていたことを投げかけてみる。 「孟起…お前が私を抱くのは…同情か? それとも憐れみなのか? お前ならばどんな美姫でも手に入るだろうに―――」 その問いに彼の眉は不機嫌そうに寄せられた。 「同情や憐れみで人を抱くほど、俺は優しくなどない。 ましてや男を抱いたりするものか。 お前を心底抱きたいと思ったから抱くのだ。 そうでなければ、あの夜回廊で出会ったお前を引き止めたりはしなかった。 理屈などはない。 それだけだ」 彼らしいその物言いに思わず笑みがもれた。 「獣のような男だな…お前は。 本能のままに生きるか―――羨ましい限りだ…まったく」 皮肉を込めたその言葉を彼は一笑した。 「褒め言葉と受け取っておこう。 ―――さぁ、そろそろ戻るぞ、子龍。 俺の身体もすっかり冷え切ってしまった。 もちろん責任を取って、暖めてくれるんだろうな?」 はっとして身体を離そうとするが、もちろん彼にしっかりと抱きこまれていて身動きが取れない。 「あれだけしておいて…まだする気か…? 笑えない冗談だぞ…孟起」 本気で焦った。 そんな様子が可笑しかったのか、彼は人の悪い笑みを浮かべている。 「俺は冗談など言わん。 諦めるんだな、子龍」 彼に抱き込まれたまま、引きずられるようにして部屋へと戻った。 その後の出来事は推して知るべし―――。 written by y.tatibana 2003.03.26 ※リク下さった方への【Message】 |
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