真実の代償 ACT5


どうやって自宅に戻ってきたのか、覚えてはいなかった。
気が付けば、響也はリビングのソファに腰を下ろし、掌に載せた金色のバッジを食い入るように見つめていた。
法介の弁護士バッジを。

真実を追究する為に、響也は検事になった。
響也にとって有罪か無罪か―――そんな勝敗などというものは二の次で、たとえ負けようとも真実を明らかにすることが一番重要だった。
どんなに辛い真実であっても、そこから目を逸らさない強さがあると自負していた。
事実、バンドのメンバーであった大庵や、実の兄である霧人の罪が明らかになった時も、響也はそれを受け入れたのだ。
それが真実であるのならば、どんなことがあったとてそれを曲げるようなことがあってはならない。
検事という道を選んだ響也にとって、それは譲ることの出来ない信念だった。

けれど、今……真実を貫こうとすれば、何より大切に想う人の命を失うという状況に立たされた。
仮に相手の要求を呑んだとて、成歩堂が言ったように法介が助かる可能性は殆どないのだと、響也とて分かっている。
だが、それを受け入れられるかどうかといわれれば、話は別だ。
真実を追究することが、事件と何の関係もない法介の命を奪う結果になる―――それを簡単に割り切れるほど、響也は冷徹にはなれなかった。
強いと自負していた筈の心が揺らぐ。

「どう……したら、いいんだろう……おデコくん……ぼくは―――」
ぽつりと呟いた響也の耳に、不意に甦ってくる言葉があった。

『オレの気持ちは―――アナタが拾った弁護士バッジに込められている。
アナタなら分かっていくれるでしょう?
牙琉検事……オレ達はどんなことがあっても決して真実から目を逸らしちゃいけないんだ!』

囚われて、生命の危機に瀕しているにもかかわらず、凛と響いていた法介の声だ。
電話越しでも伝わってきたはっきりと強い意志を宿していたその台詞。

そう―――法介もまた法曹界に身を置く人間なのだ。
真実をまっすぐと見据える澄んだ大きくて綺麗な瞳に、響也はどうしようもなく魅かれた。
彼もまた自分の師ともいうべき霧人を告発した。
それが真実であるのならば、目を逸らすようなことはせずに。

ぐっと掌のバッジを握り締め、俯いた響也はそれを額に当てる。
法介の想いや意思がそこから伝わってくるようだ。

ここで真実から目を逸らせば、法介の志をも汚してしまうことになるのではないか。
検事としての自分のことを、尊敬しているのだと法介は言ってくれていた。
そんな気持ちも踏みにじってしまうことになるのではなかろうか。

バッジを握った手を、どれくらいの間、額に押し当てていただろうか。
閉じていた目を、響也はゆっくりと開き、きっと前を見据えた。
手にした法介のバッジを胸元へと仕舞い込むと、立ち上がる。
「絶交されるのは、ゴメンだからさ……おデコくん」
響也はそう零して、今度はしっかりとした足取りで自宅を後にしたのだった。





迎えた裁判の日。
法介は相変わらず縛られたまま、倉庫の片隅に転がされていた。
最低限の食事は与えられていた為に、疲労はあるものの、法介の意識ははっきりしていた。
「もうそろそろ判決の下る時間ですね」
離れた場所に座る初老の男が、冷たい声音でそう呟いたのが法介の耳に届く。

正にその言葉を待ちかねたかのように、男の携帯電話が鳴った。
「さて、貴方の命……どうなるでしょうかね」
男は法介の方を一瞥してから、携帯電話を耳元に押し当てた。

法介の心は不思議な程に凪いでいた。
響也ならきっと間違ったりはしない。
自分の進むべき道を誤ったりなどは決してしない。
そう堅く信じていたから。

「そうですか、分かりました。
では貴方がこちらに戻ってきたら、移動することにしましょう」
ごく短いやり取りで、男は電話を仕舞った。
そうして法介に向け、乾いた笑みを見せる。
「おめでとうございます。
貴方の命―――僅かながら生き永らえたようですよ。
貴方と違って、貴方の恋人は利口だったみたいですね。
無罪判決が下ったと、裁判を傍聴していた連絡係からの知らせがありました」

法介はその言葉を聞いて、男から顔を隠すようにして俯いた。
するとくつくつと男は低く笑う。
「おやおや……もっと喜んで良いのでは?
今しばらくは生かしておいてあげましょう。
控訴期間が過ぎるまでは……ね。
そうしなければ検察側が控訴などという愚かしいことをしかねませんから」

法介はそれに対し、どんな反応も返しはしなかった。
それを男は、法介がショックを受けている為だと信じて疑わない様子で、仲間の二人の男に声を掛け、用意してあったらしい酒を飲み始めた。
祝杯という訳だ。

けれど―――。
法介は決してショックで項垂れていたのではない。
声を殺して、笑っていたのだ。
もちろん正気を失ったのでもない。

法介はやはり微塵も疑ってはいなかったのだ。
響也が真実を貫いたであろうことを。
そして、男達は騙されている―――先程の報告を信じて、呑気に祝杯を挙げている。
それが滑稽だった。
きっと何がしかの意図があって、偽の情報を掴まされたに違いないと思った。
何の確証がある訳ではない。
けれど法介にはそれ以外の可能性を思い浮かべることは出来なかった。

それからしばらく経った時だった。
コンコンと鉄の扉を外からノックする音が響いた。
「どうやら戻ってきたようですね」
男は席を立ち、扉へと向かう。
鍵を外すと、ドアを開けたのだった―――。





地方裁判所の控え室。
深々と溜息を吐き出し、判決後の雑多な事務作業を終えた響也は沈痛な面持ちでソファに腰を下ろしていた。
頭を占めているのはもちろん先程の審理のことだ。





「双方共に特に異議がないようでしたら、これで審理は終了しますが……」
裁判長が渋面を作って、弁護側と検察側を交互に見る。
決定的な証拠も証言もなく、裁判長もどう判決を下すべきか考えあぐねているのだろう。
有罪か無罪か。

木槌が振り下ろされようとした時、
「異議あり!」
響也が強く叫んだ。
「そう焦らないでおくれよ。
このぼくがこの程度で終わる訳がないだろう?
検察側は―――決定的な証人を用意している!」

ざわざわと一斉に傍聴席が騒がしくなる。
「静粛に、静粛に!」
裁判長の声が響き渡り、法廷内の視線が響也へと集まった。

もう引き返せない。
法介の言葉を思い出し、決心したことだ。
今更それを覆すつもりは響也にはなかった。

これで一気に形勢が変わる。
事件のあったまさにその時刻に被告人とぶつかった人間が証言台に立てば。
それだけではない。
昨日自宅を出た後、響也は事件のあった会計事務所に向かった。
そうして、「MOディスクがない」と呟いた事務所の人間に面会し、厳しく追及したのだ。

法介を拉致してまで、被告人の男を無罪へと持ち込みたかった相手の目的。
それを考えた時、MOディスクがないというその一言が、響也の琴線に引っかかった。
被告人はそれを盗むために事務所に侵入し、出くわした会計士を殺害した。
そしてそのMOディスクを法介を連れ去った相手に渡すか、取引する前に、捕まってしまったのではないだろうか。
被告人の男が無罪放免とならなければ、そのMOディスクは手に入らない。
だからこそ響也に負けろと要求してきたのだ。

普段の穏やかで優しげな響也の表情はまるでなく、対峙した事務所の人間は青褪め震えながら、MOディスクが盗まれたことを認めた。
そのディスクには様々な企業や各種団体などの裏金の情報が記録されているのだとも。
この会計事務所ではその方法を指示し、手助けしていたというのだ。

それで真実ははっきりと響也の前に示された。
そのMOディスクがあれば、それをネタにして企業や団体を強請ることが出来る。
それが相手の目的なのだ。

「さぁ、では登場していただこうか……決定的な証人に!」
響也は指を突きつけた。
そしてそこから流れは一気に響也のほうへと傾いたのだった。





判決は当然のことながら「有罪」だった。
証人の登場や、MOディスクの件を響也から指摘され、被告の男もとうとう観念した。
そしてそれは響也にとっても、重大な結果を齎すものだ。

「ぼくは真実を貫いたよ。
これで、絶交されずにすむかな……おデコくん」
ぼんやりと蒼白い顔の響也は一人呟く。
その答えはもう永久に返されることはないだろうと、当然ながら響也は思っていた。

しかし―――。

「ええ、絶交はなしです、牙琉検事」
頭上から降り注ぐその声に、ソファに座り、俯いていた響也は大きく目を見開いた。
信じられない思いでゆるゆると顔を上げれば、目の前には響也が会いたくて堪らなかった法介の姿があったのだ。
「おデコ……くん?」
珍しく呆然とした様子の響也が可笑しかったのか、法介は笑顔を見せる。
「そうですよ。
人を幽霊を見るような目で見ないで下さい。
ちゃんとオレ無事で生きてますから」
無事という割りに、法介の服は汚れ、髪も乱れて、殴られたらしい顔は赤く腫れていた。
けれど、だからこそこれが夢でも幻でもなく、現実の法介なのだと知らしめてくれる。

響也はソファから立ち上がると、力一杯法介の身体を抱きしめた。
暖かな温もりがある。
触れ合った胸元からは心臓の鼓動が伝わってくる。
懐かしい法介の香りがする。
本当に法介が戻ってきたのだと―――響也は確信した。

「ちょ……牙琉検事!
離れて下さい!
ここを何処だと思ってるんですか!」
耳元で怒鳴られるその大声さえも、歓喜を齎してくれる。

「先に病院に行こうって言ったんだけど、どうしてもキミに会いたいってオドロキくんが言うからさ。
どうやらぼくはお邪魔みたいなんで、退散するよ。
じゃあ」
出入り口のドアに立っていた成歩堂の存在に、そう声を掛けられるまで響也は気付いてはいなかった。
法介しか目に入っていなかったのだ。
「あっ、そうだ。
二、三日はゆっくり休んでいいからさ。
どうせ依頼人も現れないだろうし」
そう言い残すと、パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、成歩堂は飄々と去って行った。

「あっ、ちょっと成歩堂さん!」
響也の腕の中で法介はもがくが、離す気など響也にはなかった。
「ごめん……ごめんね、おデコくん」
その響也の謝罪に、法介は何を思ったのか抵抗を止めた。
自分の肩口に顔を埋める響也の頭を、法介は優しく撫でる。
「どうしてアナタが謝るんですか?
成歩堂さんから今日の審理のことは聞きました。
アナタは何も悪いことなんてしてないじゃないですか。
検事として当然のことをしただけだ。
真実から目を逸らさないでいてくれてありがとうございます。
オレはそんな検事を尊敬します」

「あ……りがとう、おデコくん」
様々な感情が綯い交ぜになって、響也の声は震え掠れていた。
「でも……どうして……助かったの?」
「成歩堂さんが助けてくれたんですよ。
今日の審理にみぬきちゃんと一緒に傍聴席に居て、証人が呼ばれ時や、MOディスクの件、それに判決が下された瞬間際立って緊張した男をみぬきちゃんがみぬいてくれたんです。
それで成歩堂さん曰く、その男をかるーく締め上げたらオレを連れ去った連中の仲間だって白状したらしくて……。
今日の裁判は無罪判決が下ったと連絡するように、これまた至って穏便にお願いしたらしいですよ。
軽くとか穏便とか、かなり怪しいものですけどね。
それでオレが監禁されていた場所を吐かせて、助けに来てくれたんです。
連中も無罪判決が下ったって油断してましたらね。
まぁ、正確に言えば助けてくれたのは成歩堂さんじゃなく、何か特殊部隊みたいな人達でしたけど。
凄かったですよ、ドアが開いた瞬間、スモークみたいなのが焚かれて、一斉に人が雪崩れこんできて、あっという間に制圧されてましたから。
そんな人達を動かせるなんて、成歩堂さんって一体どういう人なかなぁ……あの人曰く『ま、そういうことに顔の利く知り合いがいるんでね』ってはぐらかされましたけど」
あははと笑う法介を抱きしめながら、さすがに今度ばかりは成歩堂に感謝した。
あのお嬢さんにも何かプレゼントしないとなとか、捕らえられたという男達へは必ず厳しい処遇を課してやるなどと頭の片隅で思いつつも、今は法介のことだけで精一杯だった。

「病院に行こうか、おデコくん。
傷の手当てとかしてもらわないと」
ようやく気持ちが落ち着いてきて、響也は法介を解放した。
すると法介は静かに首を振った。
「そんな大げさな……大丈夫ですよ、本当に。
それよりオレは―――」
「ん?」
「オレは……その……牙琉検事と一緒にいたいです。
今日の審理が終わったらオフだって言っていたじゃないですか。
オレも休み貰えたので……ゆっくりできるかなって。
その……約束したじゃないですか……今度オフが取れたら……一緒に過ごすって」
先程までの歯切れのよさから一変して、恥ずかしそうに躊躇いがちに法介は言う。

もう一度強く抱きしめて、キスしたいのを、響也はなけなしの理性を総動員して耐えた。
ここでそんなことをすれば、間違いなく法介は臍を曲げてしまうだろう。
それだけはなんとしても避けたい。

「オーケイ」
優しく微笑むだけに留めて、響也は法介を伴って、堂々と裁きの庭を後にしたのだった。



(終)



2009.10.11 up