真実の代償 ACT4
鳴り響く携帯電話の音に、響也はびくりと身体を震わせた。
ディスプレイに『王泥喜法介』と表示されているのを確認し、響也は飛びつくようにして通話ボタンを押し、耳元に電話を押し付けた。
「もしもし!?」
らしくなく、自分でも声が上擦っているのが分かった。
けれど今はそんな体裁を気にするほどの余裕など、響也には全くなかった。
『どうも、先程連絡差し上げた者です。
王泥喜弁護士がようやく目を覚まされたので、お約束通り再度連絡させて頂きました。
これで我々の言うことを信用して頂けることでしょう』
響也とは対照的に落ち着き払った男の声が耳に届く。
間違いなく、一度目の電話を掛けてきた男だった。
そして響也が口を開くよりも前に、また別の声が電話口から発せられた。
『牙……琉検事?』
と。
間違えるはずもない。
聞きたくて聞きたくて仕方のなかった法介の声だ。
全身の力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになるのを、響也は懸命に耐えた。
まだ安堵するには早い。
そう己の懸命に叱咤して。
「おデコくん?おデコくんだね!?」
もっともっとちゃんと法介の声が聞きたかった。
彼が無事なのだということをしっかりと確認したかった。
なのに混乱のせいか、頭の中で言葉が絡まって音にならない。
言いたいことは沢山あるというのに―――。
『落ち着いて下さい、牙琉検事。
オレは無事ですから』
意外な程に、聞こえる法介の声は冷静だった。
それが響也をはっと正気付かせてくれる。
響也がこんなことに巻き込んでしまったことを詫びるが、法介は響也のせいではないと柔らかな声で言う。
するとあの男の声が電話口のすぐそばから聞こえてきた。
法介に自分が伝えるべきことを言えと、促している。
言われなくとも、それが何を指すのか―――響也には十分すぎるほどよく分かっていた。
命乞いをしろと……即ち響也に明日の裁判で負けて欲しいと、法介の口から伝えろと要求しているのだ。
そうすれば響也は激しく動揺し、それを拒むことは出来ないだろうと踏んでいるのだろう。
それに対し、法介は―――。
『いいですか、牙琉検事!
わざと裁判で負けるなんてこと、オレは絶対に許しませんよ!
そんなことをすれば絶交です!
もう二度と口を利きません!』
迷いなど欠片もない様子で、法介はそう叫んだ。
響也は大きく目を見開く。
すると誰かが動く気配がして、『ぐっ……』と法介が低く呻いた。
それだけで、響也は法介が殴られるか蹴られるかして、暴行を加えられたのだと悟る。
「おデコくん!?」
自分が危害を加えられた訳ではないのに、響也はまるで自分自身がダメージを食らったかのように顔を歪めた。
心臓がぎゅっと鷲掴まれたかのように痛い。
法介は切れ切れに大丈夫だと響也に告げるが、響也は激しく頭を振った。
また心が激しく揺れ動き、冷静さを欠いていく。
相手の男が何か言うが、響也の耳にはほとんど入っていなかった。
法介がそれを遮り、また殴られるような音がした。
『オレの気持ちは―――アナタが拾った弁護士バッジに込められている。
アナタなら分かっていくれるでしょう?
牙琉検事……オレ達はどんなことがあっても決して真実から目を逸らしちゃいけないんだ!』
それにも負けず、法介は響也に向けて懸命に訴えかけてくる。
『黙りなさい!』
男の怒鳴り声と共に、乱暴に電話は切れた。
ツーツーと虚しく響く音を、響也は呆然と聞いていた。
そのまま呪縛にかかったかのように、しばらく動けなくなる。
「おデコく……くん」
呟いてみても、もちろんもう返ってくる答えはない。
響也の手から携帯電話が滑り落ちた。
けれどそれを拾うような余裕などなく、響也は傍の塀へと寄り掛かる。
今、法介がどんな目にあっているのか……それを想像するだけで身体が震える。
自分が殴られるなり蹴られるなりした方が、どれだけマシなことだろう。
また思考が働かなくなる。
ただ法介のことを思い浮かべるだけで頭が一杯になってしまう。
懸命に奮い立たせていた心が折れてしまいそうだ。
そんな茫然自失の響也に、
「牙琉検事……?」
そう訝しげに掛けられる声があった。
しかし響也の耳に、それは届いてはいなかった。
反応を返さない響也に、相手は不審を抱いたようで、肩を軽く揺さぶられる。
すると、ようやく響也がのろのろと視線を上げた。
目の前に立つ男の顔を目に映し、それが成歩堂龍一であると認識するまでにまたしばしの時間を要した。
成歩堂はニット帽にパーカーといういつもの出で立ちで、手にはコンビニの袋を提げている。
「偶然だね。
けど、どうしたんだい?
こんな時間にこんな所でぼーっとして」
「おデコくんが……」
訊ねる成歩堂に対し、響也はそう呟いただけで、その先は言葉にならない。
成歩堂は首を傾げ、
「オドロキくんがどうかしたのかい?
そういえばここ……オドロキくんの自宅の近くだったね。
さては押しかけたはいいけど、追い返されちゃったのな?
それでショック受けているとか」
と、人の悪い笑みを浮かべる。
二人の関係を知っている成歩堂がそう茶化すが、響也の反応は無い。
そこでようやく成歩堂は、只ならぬ雰囲気を察した。
笑っていた表情を一変させ、すっと引き締める。
いつもの響也らしからぬ様子と、「おデコくんが……」と呟いたその言葉から、状況を推察するのは成歩堂には容易かった。
「オドロキくんに何かあったんだね?
しっかりしないか、牙琉検事!」
今度は激しく身体を揺さぶられて、響也の意識はゆっくりと現実に引き戻される。
いつもの響也であったなら、例えどんな困難があろうが成歩堂に話すことなどしなかっただろう。
けれど今のこの状況だけは別だった。
情けないことだが、誰かに縋らずにはいられなかった。
自分一人だけでは冷静な判断が出来なくなっている現状では……。
響也はゆっくりと、まるで自分自身にも再度現実を認識させるが如く、法介の身に起こったことを成歩堂へと伝え始めた。
話が進むにつれ、さすがの成歩堂の表情も険しさを増していく。
響也が全てを話し終えると、成歩堂は大きく息を吐き出した。
「……状況は分かったよ。
だけど、キミは明日の裁判のことだけを考えるんだ」
まず最初に成歩堂はそう切り出したのだ。
項垂れていた響也は成歩堂のその言葉に目を見開き、顔を上げる。
そうして目の前の成歩堂を睨みつけた。
「そんなことできる訳がないだろう!
おデコくんが、危険に晒されているんだよ!?
裁判のことだけに集中なんて出来ないに決まっている!」
響也の視線をまっすぐに受け止めながら、成歩堂はすっと目を細めた。
「それこそ相手の思う壺だよ。
頭の良いキミなら分かっているとは思うけど。
それに……明日例えキミが裁判に負けたとして―――本当にオドロキくんが無事に帰ってくるなんてキミは思っているのかい?」
響也の頭にかっと血がのぼる。
その衝動のままに響也は成歩堂の胸倉を掴んだ。
身体を反転させ、成歩堂の身体を自分が寄りかかっていた塀へと押し付けた。
「成歩堂龍一……よくもそんなことが言えるな!
アンタはおデコくんのことが心配じゃないのか!
もし彼の身に何かあっても平気なのか!」
それに対する成歩堂の声は、全く冷静さを失っていなかった。
「ぼくたちが心配していれば、オドロキくんは無事に戻ってくるのかい?
違うだろう?
落ち着くんだ、牙琉検事。
ぼくだってオドロキくんのことは心配に決まっている―――けど、現実的に考えれば相手が約束を守るとはとても思えない。
残酷なようだけど、キミが今集中しなければならないのは裁判だ。
キミは検事なんだよ?
たとえ大切な人の安否が知れずとも、裁きの庭に立たねばならない。
なによりもオドロキくんがキミに何を望んでいるのか、それをよく考えてみるといい」
法介の望み。
その言葉に、響也ははっと瞠目した。
成歩堂から手を離し、ジャケットのポケットの中へと手を入れる。
その指先に触れたのは、小さな金属。
法介の弁護士バッジだった。
再び沈黙する響也の肩に、成歩堂は軽く手を置いた。
「いいね、キミは審理のことに集中するんだ。
ぼくの方でなんとしてでもオドロキくんの行方を掴んでみせるから。
ぼくにとっても彼は―――大切な家族だからね」
響也は成歩堂に答えを返すことはなく、取り出した法介の弁護士バッジを食い入るように見つめ続けていたのだった。
(ACT5へ続く)
2009.08.27 up