睡眠 不足


ふわぁっ……と響也の隣に座る法介がそれは大きなあくびをした。
途端に響也の眉根が不機嫌そうに寄せられる。
普段の状況であったなら、法介があくびしようがうとうとしようが、別段咎めたりしない。
それだけ自分に気を許してくれているのだと、嬉しくさえ思うだろう。
だが今のそれは、食事の後、響也の行きつけの会員制の静かなバーで酒を飲み、良い雰囲気になってきたところでのものだった。

男同士であるが故に、恋人同士といえど大っぴらに肩を抱き寄せたり、愛を囁くようなことはできない。
響也はあまりそういったことに頓着しないのだが、法介はそうではなく周囲の目が気になるらしかった。
その点については自分の方が特殊なのだと、響也も分っていたし、法介が嫌がるようなことは極力したくないから、二人で外に出る時には友人のような顔でいるよう努力している。

しかしこのバーは店の人間が客に立ち入ろうとはしないのはもちろん、他の客も決して他人のことを詮索しない。
多くの場所で響也は、不躾な視線に晒されたり、サインを強請るファンに詰め寄られることが間々ある。
だがここではそれはない。
他人の会話に興味本位に耳を欹てたりするような人間も。
まるで自宅にいるかのように寛げる空間を提供することが、このバーのモットーなのである。
大抵の客が響也のような芸能人や政治家、政財界の大物など、普段何かと人目に晒されることが多い人間だ。
だからこそ守られているルールなのかもしれないが。
仮に、その暗黙の了解を乱すような輩は、マスターから言葉は丁寧だが、有無を言わさず退去させられるだろう。
そういった点を響也はとても気に入っている。

ここならば、恋人に対するようなスキンシップも軽いものなら法介は許してくれる。
だからといって、響也とて無闇にいちゃつくような見っとも無い真似はしない。
この場の空気を壊さぬように、カウンター席に並んで腰を掛け、肩が触れ合う程度に身を寄せて、見つめあいながら会話を交わす程度だ。
法介の頬が酒のせいでほんのりと赤くなってきた頃、響也が法介の耳元に唇を寄せ、甘い台詞を囁く。
そうしてようやく恋人同士の甘い雰囲気が流れ始めてきたところだったというのに、法介の大あくびが全てぶち壊した。
カウンターの中にいたマスターでさえも、思わずといった様子で苦笑いを浮かべてしまい、慌てて平静を取り繕っていた。

「おデコくん……キミさ、このぼくとのデートがそんな大あくびをするほどに退屈なのかい?」
響也の不機嫌そうな声に、流石に法介も悪いと思ったのか、バツの悪そうな表情を作る。
「す、すみません……そういう訳じゃなくて……昨日あんまり寝てなくて」
不規則な生活を送る響也とは対照的に、法介は普段か割と規則正しい生活を心がけていると聞いた。
常日頃から睡眠と発声練習は何より大事だと公言している彼だというのに、珍しい。

「どうしてだい?
眠れないような何か悩みでもあるのかな?」
今法介がかかえている弁護の依頼はなかったと記憶しているのだが。
すると法介は首を振った。
「違いますよ。
裁判所で資料映像をみていたら、ついつい遅くなってしまって……」
「資料映像……ねぇ」

裁判所にはこれまでの審理の資料や映像が数多く残されている。
どうやら法介はそれを見ていて、夢中になってしまったらしい。
過去のそういった資料の類は、確かに勉強になる。
特に新人弁護士である法介にとっては尚更だろう。
法介のそんな勤勉さは、彼の弁護士という職業に対する熱意がいかほどのものであるかを如実に現している。
それは同じ法曹界に身を置く響也にとっても、とても好ましく映る。

そういう理由ならばと、
「そうか……ま、あまり無理はしないでおくれよ。
キミを寝不足にしてイイのは、ぼくだけなんだからさ」
そう言って、響也は表情を和らげ微笑んだ。
「なっ……なにをいきなり馬鹿なこと言ってんだよ、アンタは!」
途端に顔を真っ赤にする法介に対し、響也は笑いながらも彼の唇に人差し指を押し当てた。
「静かにね。
キミの声はそれでなくてもよく通るんだからさ。
騒ぐと追い出されてしまうよ」

それは法介も重々承知しているのか、はっと口に手を遣り、マスターに向けてぺこりと頭を下げる。
響也に対しては法介の鋭い視線が投げかけられた。
一体誰のせいだと訴えているに違いない。
思い通りの法介の反応に、それまでと一変して気を良くする響也を尻目に、法介は気持ちを落ち着かせるようにグラスを口に運ぶ。
「いつかはオレだって成歩堂さんみたいに……。
そうなればこんなにすぐに動揺したりしないさ」
ぶつぶつと呟く法介の言葉を、響也は聞き逃しはしなかった。

途端に笑顔が再び渋面に逆戻りする。
「成歩堂だって……?」
響也にとってその名はある種地雷だ。
七年前の真相が分った後、軽蔑していた気持ちはなくなった。
だが、今尚響也にとって成歩堂龍一は反りの合わない相手だ。
今まで誰とでも割とそつなく付き合えてきた響也であったが、世の中には根本的に合わない相手がいるのだと、成歩堂から学んだ。
正確にいうなれば、響也の方が一方的に苦手意識を持っているのだったが。
あのなんでもお見通しだと言わんばかりの人を食ったような笑みが、実に響也の癪に障る。

法介もそのことに薄々勘付いているのか、響也に成歩堂のことを語ることはあまりない。
しかし、酔いと響也にからかわれた動揺のせいか、今はそこまで頭が回らなかったようだ。
「オレだって成歩堂さんのような立派な弁護士になってみせますよ。
そしたら牙琉検事に何を言われたって、ちょっとやそっとでうろたえたりしませんから!
今はあんなですけど、弁護士だった頃の成歩堂さんは凄かったんですよ。
何せ伝説の弁護士ですからね。
オレにとっても憧れ存在でしたし」
どこか遠くを見つめて、うっとりと目を輝かせる法介の姿に、響也の不機嫌さは増す。

そしてピンときた。
「まさか、昨日キミが遅くまで見ていたっていう映像は―――全部成歩堂龍一の法廷でのものだというんじゃないだろうね?」
低い声音で響也が問うのに、法介は迷う素振りも見せずに頷いた。
「そうですよ。
法廷での成歩堂さんは、どんな逆境にも負けなくて、堂々としていて、本当に恰好良かったなぁ」

響也とて、一度あの七年前の因縁の法廷で、実際に弁護士だった成歩堂と対峙している。
決して諦めないというのは正しいだろうが、冷や汗はだらだら流すし、とんちんかんなことは言い出すし、とても法介が言うような格好良さなどなかった。
法介の目には憧れというフィルタが掛かっていて、過分に成歩堂の姿が美化されているに違いない。
現在の成歩堂がニット帽にパーカーとサンダルといううらぶれた姿だからこそ、余計にそう見えるのかもしれない。

それにしたって面白くない。
法介の口から、他の男の話―――特に成歩堂龍一のことを聞かされるのも、あの男に憧れているのだと心酔した様子で告げられるのもだ。
ましてあの男に夢中になって、睡眠時間を削ってまで映像を見ていた挙句、こうして久々のデート中にあくびをされたのでは敵わない。
法介が成歩堂に対して抱いているのは、純粋な憧れであって、恋情などではないことは分っている。
けれど、頭でそう考えるのとは裏腹に、成歩堂に法介を取られたように響也には思えてならなかった。
自分がこれほどまでに嫉妬深いと響也が思い知らされたのは、法介に恋心を抱いてからだ。
それまでは誰かに執着することなどなかったというのに。

響也のそんな心中などは露知らず、法介はもはや響也が成歩堂に対して持っている苦手意識のことなどすっかり失念し、昨日の映像で見た成歩堂の様子を語る。
響也は深々と溜息を吐き出すと、不機嫌な表情のまま、法介の腕を取り、席を立った。
カードで手早く清算を済ませると、きょとんとした様子の法介の腕を引き、響也は店を出た。

外に出て、冷たい夜風に当たると、ようやく法介も何が響也の機嫌を損ねたのか気付いた。
だが、法介にしてみれば、響也にも成歩堂のことを毛嫌いせず、仲良くしてもらいたいと思う。
感情の種別は異なるが、どちらも法介にとっては大切な存在だからだ。
確かに様々な柵があることも分る。
成歩堂は弁護士バッジを失ってはしまったが、彼もまた真実を追究することに力を尽くすことの出来る人だ。
響也にもそんな成歩堂のことをもっとよく知ってもらえれば、きっと彼に対する印象も変わるはずだと考える。

しかしそれは法介の大きな思い違いだった。
響也の成歩堂に対する感情は、そういった複雑なものではなく、ただ単に合わないだけだ。
成歩堂が仮に如何に敏腕の弁護士であろうが、誰からも好かれていようが、七年前のことがなくても―――苦手なものは苦手なのだ。


「牙琉検事、成歩堂さんはアナタが思っているほど―――」
言いかけた法介の言葉は、途中で途切れてしまう。
正確には響也によって奪われてしまったのだ。
店の傍にあった路地裏に連れ込まれ、壁に背を押し付けられると同時に、唇を塞がれた。
もちろん響也の唇によって。

予期していなかった突然のキスに、法介は響也の舌の侵入を簡単に許してしまう。
響也の舌が我が物顔で、法介の口腔を動き回る。
逃げ惑う法介の舌は程なく絡め取られ、口付けはより深さを増した。
「ふっ……ん……」
鼻から抜けるような声を漏らして、法介は抗議の言葉も、抵抗も、そして理性さえも、響也の巧みなキスによって奪い取られていく。

散々にいいように口付けられ、ようやく解放された時には、法介はすでに腰砕けの状態だった。
ずるりと崩れ落ちそうになる身体が、腰に回された響也の腕によって支えられる。
「ウルサイ口を黙らせるのは、こうするのが一番みたいだね」
楽しそうに響也は笑って、息を乱す法介の唇に今度はちゅっと軽く口付けた。
「さぁ、ぼくの部屋に行こうか、おデコくん。
ぼく以外のオトコのことなんて考えられなくしてあげるよ」
あとはもう響也の為すがままだった。

結局この日も法介が眠りにつけたのは、明け方近くになってからだった。



2009.02.07 up