Loving
you
Act6


ようやく目的の引田クリニックに到着すると、まるで響也を待ち構えていたように、成歩堂龍一が待合室の壁に寄りかかるように立っていた。
普段ならばここで盛大に顔を顰め、嫌みの一つでも口にするところだが、今の響也にはそんな余裕はなかった。
「突き当りの右手の部屋だよ」
ニット帽にパーカーという相変わらずの出で立ちの成歩堂も、それが分かっているのか、挨拶もなく響也にそう告げた。
それが誰のいる部屋かなどとは聞かずとも分かる。

響也は微かに頷いただけで、成歩堂の脇を無言で駆け抜けた。
成歩堂に彼の状態を聞くことも可能だったが、今は一刻も早く本人に会いたかった。
教えられた病室のドアを、響也はノックもせず開けると、息を切らせながら中に足を踏み入れた。
求めてた人物はただ一人部屋の中にいた。

「牙琉……検事……?」
勢い込んで入ってきた響也を、ベッドの上に身を起していた法介がきょとんと見つめる。
どうして突然響也がここに現れたのか、まったく分かっていない様子だ。
響也はしかし説明もなくそのまま法介の傍に近付くと、いきなりぎゅっと彼の身体を抱きしめた。
「良かった……おデコくん……案外元気そうで安心した。
それで、具合はどうなの?」
「は?あの……」
困惑する法介をよそに、響也は彼の存在を確かめるように腕に力を込める。
法介の首筋に顔を埋め、肌を摺り寄せた。

「キミが倒れたって聞いたんだ……。
しかも相当悪いらしいって―――」
響也は気遣わしげな声音で呟く。
「ええっ!?
いや、ちょっと、待って下さいよ!」
それに対し、法介は驚きの声を上げて、響也の腕から逃れようとする。
それでも、響也の己のを戒める力は強く、なかなか抜け出せない。

「ちょっ……、離して下さい、牙琉検事!」
法介の抗議にも、響也の腕は緩まない。
「イヤだ。
離したら、おデコくんは消えていなくなってしまいそうだ」
「いやいや!
どうしてだか分りませんけど、アナタは激しく誤解しています!
オレ、別に重症とか死にそうだとか、そんなんじゃありませんから!
ただの貧血です」
その法介の言葉に、今度は響也が驚く番だった。

えっと目を瞬いて、響也は思わず腕から力を抜いてしまう。
その隙を逃さず、法介は響也の胸を押し返し、身体を離す。
ようやく息苦しさから解放されて、法介はほっと息を吐き出した。

驚く響也に、法介は少し照れつつ口を開いた。
「ここしばらく寝不足気味だったんです。
それで……貧血を起こして倒れてしまっただけですよ。
大の男がみっともない話ですけど……」
「……本当に?」
響也は呆然としたまま、信じられぬ思いで問い返す。
確かに響也は検事局で茜から聞いたのだ。
病院では治せない病だと、成歩堂龍一が言っていたと。
「本当ですよ。
点滴をしてもらって、随分気分も良くなりましたし、もちろん入院の必要もないんで、今から帰るところだったんです」
そんな事情を知らない法介からしてみれば、響也が何故自分のことを重病などと思ったのか分らず不思議に思うばかりだ。

法介に言われて、改めて響也は彼の姿をまじまじと見る。
確かに彼はいつものスーツ姿だったし、顔色も多少蒼白いものの、とても重病人のようには見えなかった。
(―――成歩堂龍一め……っ!)
あの男にまんまと一杯喰わされたのだと、響也は小さく舌を打つ。
慌てふためいてここまでやって来た自分の姿を見て、今頃あの待合室で小憎たらしく笑っているに違いない。

けれど―――法介が元気そうで本当に良かった。
そのことに、響也は改めて胸を撫で下ろした。
喧嘩別れしたまま、彼を失うようなことになっていたら、きっと正気ではいられなかった。
しかし、法介が倒れたと聞いて勢いでやって来たものだから、こうなってしまえば、まず何から話せば良いのだろうか。

響也はすぐに考えが纏まらず、法介の顔を見つめたまま立ち尽くしていた。
それは法介も同じらしく、ベッドに腰掛けたまま響也を見上げた状態で、口を噤んでしまった。
互いに、霧人のことで激しく争ったあの日のことが頭に蘇り、その気まずさに沈黙が重く圧し掛かる。

だが―――そんな重苦しさだけではなかった。
無言で見詰め合ううちに、ずっと会いたかったのだという想いが自然と込み上げてきて、嬉しさもまた溢れてくるのだ。
二人共に、あの日のことを後悔し、会うことも声を聞くことも出来ないことに、寂しくて苦しい日々を送っていたのだから。

「牙琉検事―――ごめんなさい」
「おデコくん―――ゴメン」
それは二人同時に重なり合い、出た言葉だった。
「オレはアナタを傷つけた」
「僕もキミを傷つけた」
そう……どちらも傷付け、そして傷付いた。

だが、そのお陰で気付くことの出来たこともある。
法介は響也への本当の気持ちに。
響也は法介への変わらぬ想いに。

「おデコくん、ぼくは……」
意を決したように口を開いた響也を、
「待ってください、検事。
今度はオレに言わせて下さい」
そう遮って、法介は静かに首を振る。
法介にもう迷いはなかった。

「もう遅いのかもしれません。
今更だって怒られるかもしれません。
でもオレ……ようやく素直に自分の気持ちに向き合うことができたんです」
法介の大きな瞳は、真っ直ぐに響也を映す。
響也もその法介の真摯な眼差しを、逸らすことなく受け止める。

「オレはアナタのことが好きです」
「おデコくん……」
法介の告白を、響也は信じられぬ思いで聞いていた。
まさか、彼からこうして好きだと言ってもらえるとは。
とても嬉しいのに、突然のことになかなか現実感が伴ってくれない。

そんな響也をよそに、法介は静かに続ける。
「恋人なんて本当はいないんです。
検事に恋人がいるのかって聞かれた時は妙な意地を張ってしまっただけで……だけど、なかなか本当のことを言い出せませんでした。
アナタをずっと騙すような形になってしまって、すみませんでした。
だから検事……オレを殴って下さい。
あの時も最低だなんて酷い言葉を投げつけて、オレはアナタを殴ってしまったから」
「そんな……おデコくん、アレはぼくが―――」
酷いことを言ったのは自分も同じだと、響也は訴えかけようとするが、法介は首を振る。
「いいえ、殴って貰わないと、オレの気が済みません」

意地でも引かないという法介の真剣な眼差しに、響也はやがて深々と溜息を落とす。
「分ったよ……なら、目を閉じて」
確かに見つめられたままでは殴り難かろうと、法介は言われるがままに目を閉じた。
襲い来るであろう衝撃に備えて、法介はぐっと奥歯を噛み締める。

けれど―――。
齎されたのは、拳でも痛みでもなくて……唇への温もりだった。
驚いた法介が思わず目を開ければ、響也の整った顔がすぐ間近にあった。
法介の唇に、優しく重ね合わされていたのは、響也の唇で―――。

やがて触れ合うだけの口付けを終えて、響也が名残惜しげに唇を離す。
そうしてウィンクと共に、悪戯っぽく笑った。
「好きな人に与えるのは、殴るなんて野蛮なものじゃなくて、キスに決まっているだろう?」
「牙琉検事……」
「好きだ、愛しているよ、法介」
再び法介の身体は、身を屈めた響也の腕の中に囚われる。
しかし、今度は法介も決して抗いはしなかった。
響也の胸に顔を埋め、縋るように彼の背に腕を廻し、力を込める。

これが別々だった二本の道が、紆余曲折を経て、ようやく一つに重なり合った瞬間だった。





成歩堂龍一は、待合室の椅子に腰を降ろし、口元に優しい笑みを浮かべて呟く。
「恋の病は、決して医者には治せないからね」
と。



2008.10.09 up