Loving
you
Act4


掌には、今もあの感触がしっかりと残っている。
響也の頬を思い切り打ったあの時の―――。

痛かった……どうしようもないくらい。
胸が締め付けられ、心が軋み、血が沸騰した。
その激情を叩きつけるように、響也の頬を打った。
激しい怒りと憤り―――そして哀しみ……それらが綯い交ぜになって、法介を突き動かした。

「最低……か」
掌をぼんやりと見つめながら、ぽつりと法介は呟きを漏らす。
それは溢れ出てくる涙とともに、響也に投げつけた言葉だ。
それが甦ってくる度に、法介は自嘲する。
(最低なのはオレの方だ)
と。

あの人の検事としての信念を疑い、そしてその誇りを傷付けた。
検事だからといっても人なのだから、肉親や親友を告発した自分を憎み恨む気持ちが当然あるだろうと。
何様のつもりだったのだと、法介は己を詰る。
自分一人の力であれらの事件の真相を暴きだしたつもりだったのか。
複雑に絡み合った糸を解き、真実を追求できたのは、響也の助けがあったからだ。
検事として被告を有罪にすることに執心するのではなく、彼もまた真実の探求者だった。
響也が居たからこそ、隠されていた真実に辿りつくことができたのだ。
弁護士という立場上、結果的に法介が告発することになっただけで、あれは二人で照らし出した真実だったというのに。

響也が怒るのも当然だ。
検事としてそんな高い志を持った響也を貶めるようなことを口にしてしまったのだから。
真実を前にして、私情に流される人ではない―――そんなこと分かっていた筈なのに……。

ただあの時の法介はどうしようもなく混乱していたのだ。
師である霧人の新たなる罪を知って。
そして、怖かった。
家族を奪われた響也に嫌われてしまったらと。
その恐怖心があまりに大きく、冷静な判断も出来ずに、混乱する気持ちが誤った方向に法介を走らせた。

何故そんなにも響也に嫌われてしまうことが怖かったのか。
落ち着いて自身の心に問いかけてみれば、その答えは簡単だった。
(オレはあの人のことが……好きなんだ)
特別な意味で。
疑いようも無くそこにあるのは恋愛感情だ。
最早誤魔化すことも、目を逸らすことも出来ない。
常識だとか、世間体だとか、そんな馬鹿げた壁を取っ払ってしまえば、答えはいつもそこにあったのに。
その壁を壊す勇気がなかなか持てずにいたのだ。
けれど、もう二度と響也のあの優しい笑顔が自分に向けられることはないという現実に陥って、ようやく本心と向き合うことが出来た。

響也に組み敷かれたあの時、湧き上がってきた怒りも、彼に一方的に誤解されたことが嫌で堪らなかったのだ。
霧人と付き合っているのだと決め付けられ、こちらの言葉も待ってはくれなかった。
その上、霧人を告発した法介の心の傷を抉り、動揺を更に煽るかのごとく、霧人の真似をして、無理矢理行為に及ぼうとしたことが哀しかった。
いくら顔が似ているといえども、響也は響也、霧人は霧人だ。
最初に会ったときこそ驚きはしたものの、その後二人を重ね合わせたことは法介にはなかった。
二人それぞれを法曹界の先輩として、法介は尊敬していたし、慕っていた。
ただ、特別な愛情を抱いていたのは響也に対してだけだ。
それを踏み躙られたように思えて、悔しくて涙が出た。
なにもかもすべて……響也への恋情があればこその憤りだった。

失ってから気付く―――それは何とも滑稽で愚かだ。
もっと早くに自分の気持ちと素直に向き合うことが出来れば、状況は変わっていただろうか。
そう考えて、法介はゆるゆると首を振る。
今更詮無きことだと。

あれから響也とは会っていない。
向こうから連絡もないし、こちらからも同様だ。
今更どんな顔で会えるというのだろう。
何を言ったところで、もうきっと手遅れだ。

「……くん、オドロキくん」
と、声を掛けられていることに気付き、法介ははっと我に返る。
視線を上げれば、ソファに向かい合って座る成歩堂の茫洋とした眼差しと目が合う。
「あ……、はい?」
慌てて法介が取り繕うような笑みを浮かべれば、成歩堂は軽く溜息を吐き、法介の手元を指差した。
そこを見れば、一枚の葉書に何枚もの切手が貼られていた。
事務所宣伝のダイレクトメールに切手を貼る作業をしていた法介だったが、いつの間にか物思いに耽っていたせいでミスを犯していたようだ。
「す、すみません」
顔を真っ赤にして詫びる法介を、成歩堂は相変わらず感情の読み取れない目で見つめている。

「ここのところ、ずっとそんな感じだよね、オドロキくん。
ぼーっとしているっていうのか、心ここにあらずっていうのか」
「いえ、あの……」
法介は否定しようとするが、事実なだけに咄嗟に言葉が出てこない。
響也とのいざこざがあったあの日以来、法介はこんな風に何度も凡ミスを繰り返している。
プライベートの出来事を仕事に持ち込むなど、社会人として失格だ。
そう何度も自分を叱咤するのに、気が付けば法介の意識は別の所に飛んでしまっていた。

「コーヒーでも入れますね」
恥ずかしさと気まずさで、法介は成歩堂の視線から逃れるように、ソファから立ち上がった。
だが予期せず、法介の身体はふらつく。
咄嗟にソファの背に手を置き、眩暈をやり過ごそうとするが、すっと視界も狭まっていく。
(あ……れ……?)
己の身体の異変にようやく気付いた法介だったが、身体は言うことをきいてくれず、傾く。
「オドロキくん!?」
珍しく成歩堂の驚愕したような声が耳に届いた気はしたが、それを確かめる間もなく、法介の意識はそのまま途切れてしまった。





「……検事、牙琉検事」
書類に目を落としていた響也は、自分が呼ばれていることにようやく気付いた。
顔を上げれば、その先には事務官が困惑したような表情で立っている。
「なに?」
至極短く、そして不機嫌さを隠そうともせず響也は問う。
いつもの響也らしからず、愛想の欠片も無い。

その冷ややかな視線に、事務官は冷や汗を流したじろぎつつも、恐る恐る口を開いた。
「その……そのように私の声も聞こえないほど根を詰められず、少し休まれては如何ですか?
もう今日も遅いですし……ここしばらくずっと働きづめじゃないですか」
検事の職務にかける熱意はすばらしいのですがと、取り成すように付け加えて。

どうやら幾度呼びかけても響也が反応を示さなかったのは、仕事に没頭し過ぎているせいだと事務官は思っているらしい。
だがそれは事実とは異なる。
本当の原因は、ここのところオフィスに籠もりっきりになっていることや不機嫌であることにも繋がっている。

だがそれを告げる気は更々無く、響也は僅かに首を振った。
そして少し表情を和らげる。
事務官が自分の身を案じてくれていることを感じたからだ。
「ぼくは大丈夫だ。
もうすぐ帰るよ。
だからぼくのことは気にせず、キミも帰宅してくれ」
上司である響也の言葉に従わない訳にはいかず、事務官はしぶしぶ頷くと、失礼しますと部屋を出て行った。

オフィスに独り残った響也は、革張りのチェアに身を沈め、深々と息を吐き出す。
「大丈夫……か」
先程自分が口にした言葉を思い返し、それが彼の―――王泥喜法介の口癖だったことに思いを馳せる。
そうしてまた別のところに飛びそうになる意識を、頭を振って覚醒させ、響也は自嘲するのだった。

ひたすらに仕事に没頭すれば、少しでも法介のことを考えずに済むかと思った。
けれど何をしていても、気が付けば彼のことを考えている自分がいた。
結局仕事は捗るどころか、その逆だった。
頭の中を締めるのは、法介のことばかりだ。

響也は己の頬に手を滑らせる。
「最低だ」
そう法介から投げつけられた言葉と、打たれた頬の痛みは、あれから時間が経ったにも関わらず、一向に消えてはくれない。
法介の言葉通り、最低だという自覚はある。
彼の心の傷を抉ってしまった。
決してあんなふうに泣かせたくなどなかったのに―――。
どうしてあんなことになってしまったのだろう。

再び沈んでいきそうになる響也の思考を掬い上げたのは、扉を叩くノックの音だった。
「どうぞ」
事務官が何か言い忘れたことでもあったのかと思ったが、入ってきたのは刑事の宝月茜だった。
響也に負けず劣らず不機嫌な表情の茜だったが、彼女の場合は常日頃からこうなのだ。
特に響也に対する時は。
何故だか一方的に嫌われているようだが、その理由は響也の知るところではない。

「どうかした?」
茜に命じていた仕事は今の所なかった筈だ。
にも関わらず彼女がここに来るなど珍しい。
彼女の顔にも嫌々ながら来たのだとしっかり書いてある。
「成歩堂さんからの伝言です」
「成歩堂龍一から……?」
あまり聞きたくも無かったその名に、響也は眉根を寄せた。

「成歩堂さんとこのあの子が……王泥喜弁護士が倒れて、引田クリニックに運ばれたそうです」
前にも確かこんなことがあったなと、茜はやれやれと溜息を吐き出しながら告げる。
そう確か、あの新人弁護士くんがバイクにひき逃げされて、骨折した時だ。
あの時は何故、このジャラジャラ検事にそのことをわざわざ伝えなければならないのだと思ったが、今はその理由を理解していた。
別に分りたくもなかったが、分ってしまったのだから仕方がない。
響也の法介に対する特別な想いを。

「な……んだって?」
茜の言葉に、響也は大きく目を見開く。
「でも成歩堂さん曰く、病院では治せないとか何とか……って、検事!?」
頭で考えるよりも、身体が先に反応していた。
もう茜の声は耳に入ってはいなかった。
響也はオフィスを飛び出し、駐車場に向かうと、バイクに跨った。
もちろん法介の元へ向かう為に。



2008.08.20 up