Loving
you
Act1
ただただ信じられない想いで、法介は法廷に立つ師匠というべき人の―――牙琉霧人の姿を見つめていた。
十月九日。
二日前に突然成歩堂によって法介に持ち込まれたシミュレート裁判は、驚くべき展開を経て、幕を閉じた。
「せ……んせい」
呆然と呟く法介の方を、一瞥たりともしようとはせず、霧人は係官に連行されていく。
自らが導き出した答えだというのに、暴かれた霧人の罪を法介は素直に信じることはできなかった。
まさか一度ならず二度までも、霧人を告発することになろうとは。
霧人のことが憎かった訳でも、嫌いだった訳でも当然ない。
弁護士としての知識や手法を、新人である法介に教えてくれた人だ。
法曹界きっての敏腕弁護士だった霧人の指導は厳しくはあったが、法介にとっては勉強になることばかりで、右も左も分からない自分を彼は導いてくれた。
そんな霧人のことを法介は心から尊敬していた。
だからこそ―――今のこの現実がなかなか受け入れられないのだ。
絵瀬まことに対する無罪判決が下された後も、法廷内のざわめきはなかなか収まらなかった。
『牙琉霧人って、牙琉響也の兄だったよな』
『弁護士であった兄が殺人者だなんて、これから先大変だろうな……有名人だし』
『いい気味だね、天才検事だか人気ミュージシャンだか知らないけど、調子に乗りすぎなんだよ』
ひそひそと囁きあう声が、方々から聞こえてくる。
放心状態だった法介は、そんな周囲の声に、びくりと身体を震わせて現実へと引き戻された。
響也に対する同情、悪意、嘲笑。
それに法介は反応したのだ。
(そ……うだ……牙琉……検事)
今、この場で一番ショックを受けているのは、霧人の実弟である響也だろう。
七年前のあの裁判でも彼は検事として法廷に立っていた。
そこから続いていた真実が白日の下に晒された今、響也の胸中にはいかなる想いが渦巻いているのだろうか。
そんなこと、深く考えるまでもない。
自分などより響也の置かれている立場は余程重いものであるし、辛いに決まっているではないかと法介は思い至る。
向かいの検察席に立つ響也へと視線を移しかけた法介であったが、しかしそれを途中で止めてしまう。
怖かったのだ。
響也が霧人を告発した自分をどんな眼差しで見つめているのかを知ることが。
淡いブルーの瞳が自分への憎しみに染まっていたなら……冷たい炎を宿していたなら―――それを目の当たりにするのが恐ろしい。
あの響也に限ってそんなことあるはずはない。
どんな辛い真実であっても、目を逸らすことなく受け止めるに違いない。
そう法介は考える一方で、自分でさえこれほど動揺しているのだ、実の弟である響也が衝撃を受けていない筈はないだろうとも思う。
響也とて人間なのだ。
その遣り切れない心の憤りや恨みが、こちらに向けられていないと果たして言いきれるだろうか。
肉親を持たない法介にはそれが分からず、だからこそ尚更怖かった。
「オドロキさん、大丈夫ですか!?
顔色、随分悪いですよ!」
隣に立つみぬきが、俯いた法介の顔を覗き込んでくる。
この少女もまた実の父親を、この一連の事件で亡くした。
それなのに、泣く事も悲しむこともせず、法介を気遣ってくれている。
それに較べて自分はどうだと、法介は自身を懸命に奮い立たせた。
頭も心もぐちゃぐちゃで混乱は収まらなかったが、法介はなんとかみぬきに向けて笑顔を見せた。
「大丈夫だよ、みぬきちゃん。
さぁ、行こうか」
「え……でも」
「事務所に帰ろう」
何か言いたそうなみぬきの言葉を遮って、法介は彼女を連れて法廷を後にした。
結局響也の方は一度も見れないままに―――。
「好きだよ」
優しい瞳で、甘く耳元でそう囁かれた声。
口付けられた唇の感触。
それらはすべて遠い夢だったかのようだ。
響也に対する自分の気持ちがはっきりとしないままに、こんな状況を迎えてしまった。
抱きしめられても、キスをされても、決して嫌だとは思わなかった。
だからといって、彼に対して特別な想いを抱いているかと言われれば、よく分からなかった。
自分で自分の気持ちを持て余している―――そんな状態であったが、ようやく答えが見え始めてきたところだったのだ。
けれどもう終わったのだろう。
もちろんあの裁判で。
弁護士を続ける限り、これから先も響也と顔を合わす機会はある。
いつまでも避けているわけにはいかない。
だが、一体どんな顔をして会えばいいのだろうか。
溜息を落としながら、法介は手にしていた週刊誌を丸めて、ゴミ箱に放り込む。
あの裁判から連日、テレビや新聞、週刊誌等々で響也のことが大々的に取り上げられていた。
そのどれもがあまり好意的なものとは言い難く、法介はもう幾度目ともなる溜息を吐く。
響也とは較べるべくもないが、法介の方にも取材の申し込みやインタビューの依頼などがあった。
当然ながらそれに応えるような気持ちは更々無く、全て断っていた。
だいたい「今のお気持ちは?」などと聞かれた所で、法介には答えようもない。
自分自身まだ混乱の最中にいるのだ。
自身のこと、霧人のこと、成歩堂のこと、みぬきのこと―――そして響也のこと。
それらが自分の中で複雑に絡まりあって、滅茶苦茶になったままだ。
と、その時、事務所の扉が開き、学校帰りのみぬきが勢い込んで入ってきた。
そして法介の座るソファに駆け寄ると、一気に捲くし立てる。
「聞いて下さい!オドロキさん!
さっき帰り道で偶然茜さんに会ったんですけど、ガリュー検事が辞めてしまうらしいんですよ!」
「えっ!?」
法介はそれを聞いて、目を見開き、反射的に立ち上がる。
みぬきが何か言っていたがそれは最早耳には入らず、法介はそのまま事務所を飛び出す。
そして法介が我に返った時には、なんと検事局にいたのだ――。
みぬきの言葉を聞いて、勢いでといおうか、無意識のうちに訪ねてきてしまったが、法介はここに至って冷静さを取り戻し、後悔し始めいてた。
やはりどんな顔をして響也に会えば良いのか分からない。
法介はぶるぶると頭を振ると、踵を返した。
(ダメだ……会える訳ない)
しかし、エントランスを後にしようとした法介の背に、「おデコくん?」と掛けられる声があった。
その声で、法介の足は呪縛に掛かったかのように動かなくなる。
自分のことをそう呼ぶのはただ一人しかいない。
まさか響也自身と遭遇してしまうとは―――運が良いのか、悪いのか。
「久しぶりだね、おデコくん。
ぼくを訪ねて来てくれたのかな?」
背後から語りかけられる声は、法介がよく知る響也のものと何ら変わりはなかった。
敵愾心も憎悪も何も感じ取れはしない。
「キミの所は、マスコミとか大丈夫だった?
おデコくんはあんまりそういうの慣れていないだろうから心配で、連絡取ろうと思っていたんだけど、なかなか時間も取れなくてさ、ごめんね」
そればかりか響也は法介を優しく気遣ってくれる。
それでも法介は振り返ることが出来なかった。
ぐっと拳を握り締めて、俯く。
どうしても怖かった。
もし響也の瞳が冷たく光っていたなら―――あの裁判での霧人のように。
それを目の当たりにすることになったらと思うと、やはり怖かったのだ。
けれど、そのまま立ち去ることも出来ずにいた。
「どうしたの?おデコくん」
そんな法介の様子に気付いたのか、響也が訝しげに問いかけてくる。
「……本当なんですか?」
それに後押しされるように、法介は決意を固めた。
いつまでも避け続けている訳にはいかないと。
「ん?何が?」
「辞めるって本当なんですか?」
みぬきから聞いた話が真実なのかどうなのかを知る為に、思わず法介はここまで押しかけてきてしまったのだ。
すると法介の問いに、ようやく響也は意図を悟ったらしい。
「あぁ……あの件か。
一体誰から聞いたんだい?
うん、その通りだ―――こうなってしまった以上、辞めるしかないよ……残念だけど」
法介は弾かれたように、振り返った。
頭の中は真っ白だった。
響也が今どんな顔をしているのか認識する間もなく、法介は響也に詰め寄った。
縋るようにして、胸倉を掴む。
「オレの……オレのせいなんですよね?
アナタが検事を辞めようとしているのは!?」
法介の叫びにも似た大声が、広いエントランスに響いた。
2008.06.14 up