とまどい
Act2
法介の悩みなどどこ吹く風で、響也はいつも通りの爽やかな笑顔で現れた。
「キミがここに入っていく姿を見掛けたからさ」
そん言葉と共に。
書棚から資料を抜き出そうとしていた法介は、突然背後から掛けられた声に、思わず息を詰めた。
そうして驚き目を見開いて、法介は肩越しに入り口へと視線を向ける。
場所は地方裁判所の資料室。
まさに法介にとって、ここは響也との因縁の場所だ。
恋人の存在について言い争いになって、突然キスされて―――訳が分からず混乱に陥れられた……。
それから響也の自宅で思わぬ告白をされたのが、昨日。
ますます混乱させられて、睡眠もろくに取ることが出来ずに、法介は重い頭を抱えながらもここにやって来たのだ。
どうしても調べておきたい資料があったからだ。
それにじっとしていれば、響也のことを思い出し、彼の言葉が甦ってくるような気がした。
もうこれ以上思い悩まされるのは御免だった。
だというのに、悩みの種である響也本人がこうして目の前に現れてしまえば、法介の努力は水の泡だ。
昨夜の出来事などなかったかのように、響也の様子は普段と変わらない。
法介とはまるで正反対だ。
あれは夢だったんだろうかと法介に思わせるくらいに。
いっそそうであったなら良かったと思うが、昨夜のやり取りはしっかりと法介の記憶に残っていた。
ならばあれはやはり響也の冗談だったのではと法介は考えた。
でなければ、こんな風に平然として法介の前に姿を現せるものだろうか。
そんなことを考えていると、響也は資料室の扉を閉めて、法介の方へと近付いてくる。
はっと気付いた時には、すでに響也は法介の背後に立っていた。
法介は棚から資料を取り出そうとしていた手をそのままに、反射的に身を強張らせる。
法介の緊張を敏感に感じ取ったのか、響也は微かに溜息を吐く。
「そんなに怯えないでおくれよ、おデコくん。
心配しなくても、こんなトコロで襲ったりしないさ」
どの口がそんなことをいうのか。
この間この場所でいきなり口付けてきたのは一体どこの誰だ、法介は肩越しに斜め後ろに立つ響也を睨み付けた。
思わず怯えるように身体を硬くしてしまった自分の腹立ちも、そこに込めて。
「いい加減にして下さいよ、牙琉検事。
この間のことといい、昨日のことといい、いくらなんでも冗談が過ぎます」
すると響也の瞳がすっと細まり、笑顔が一変して厳しい顔つきになる。
「ぼくは本気だと言ったはずだよ、おデコくん。
キミのほうこそいい加減にしてほしいね。
そうやって人のキモチを冗談で片付けて、逃げようとするのは」
「オレは逃げてなんて……」
法介の反論を塞ぐように、響也は言葉を被せる。
「なら、もう二度とぼくの想いを、冗談だなんて疑わないでくれ」
静かだが、強い意志が感じられる口調で言い切られ、法介は口を噤んでしまう。
響也の真意を裏付けるように、法介の腕輪はやはり反応しない。
本当に響也は冗談を言っている訳ではないのだ。
もうそれを認めざるを得ない。
それでも素直に法介がそれを受け止められないのは、自分の中で牙琉響也という男に対する正体の掴めない感情があるからだった。
響也と法廷で闘い、プライベートで関わりあう内に育ってきたその感情を、法介は未だに理解できず持て余していた。
響也の気持ちを本気と受け止めれば、自分の中にあるその曖昧な感情に向き合わなければならなくなる。
何故だかそれが怖かったのだ。
否定はしたものの、響也の言う通り、自分は逃げようとしていたのだと法介は気付かされた。
「すみません……オレ―――まだ混乱してて……どうすればいいのか……」
ぽつりと法介は弱々しく呟き、顔を書棚へと戻すと視線を落とす。
それが今現在の偽りのない法介の本音だった。
すると背後の響也が微かに笑う気配がした。
同時に響也の手が法介を挟んで、書棚の両脇に置かれる。
法介は響也の腕に囲われてしまった格好になる。
「うん、ぼくの言葉さえ信じてくれるのなら、今はそれで構わないよ。
昨日も言ったけど、ぼくはキミを振り向かせてみせるから。
おデコくんにはもっとぼくのことを知ってもらいたい」
すぐ間近にある響也の体温と熱く囁きかけられる声に、法介の鼓動は勝手に反応して早くなる。
鎮まれと念じるが、どうしても意識してしまう。
これまで恋愛をしてこなかった訳ではないが、慣れているというほど多くの経験がある訳ではない。
ましてこんな風に熱烈にアプローチされたことなどなかった。
だからだろうか、相手は自分と同じ男だというのに、ドギマギと反応してしまう自分を法介は情けなく思う。
普通ならば寒気が走るところだが、響也には拒否反応を覚えないこともやはり不思議だった。
せめてもの救いは、今この部屋に他の人間がいないということだ。
いや、もし誰かいてくれさえすれば、響也とてこんな行動にはでなかっただろうか。
やはり響也のことだから、人目など気にしないかもしれない。
そんなことを考えて、法介はどうにか気を逸らせようとするのを、鋭い響也は敏感に感じ取ったのだろう。
今度はくくっ……と声を漏らしながら笑い、「おデコくんは可愛いね」などとからかうように言う。
流石にむっとして眉根を寄せた法介が口を開くよりも早く、響也は素早く法介の耳元に唇を寄せた。
「スキだよ、おデコくん」
低く甘く響く声で、響也は囁く。
それに反応して、ぞくりと法介の背中に痺れのようなものが走って、頬がかっと火照る。
さっきまで揶揄するように笑っていたかと思えば、急に恥ずかしげもなく好きだなとど口にする。
どこにそんな素早い切り替えスイッチのようなものを持っているのだろう。
「け……検事……こんなところでそういうのは止めて下さい」
赤くなった顔を見られまいと深く俯き、法介が抗議する。
これ以上、こんないつ誰が入ってくるともしれない場所で、口説かれては堪らない。
「さて、どうしようか。
そうだな……おデコくんが今夜ぼくと食事に行ってくれるのなら、今は大人しく退散するけど?」
問いかけではあったが、答えは一つしかないように思われた。
ここでノーと言えば、恐らく響也は自分を解放してくれはしまい。
「分かりました!オーケーです!」
ヤケクソ気味に法介が叫ぶと、響也は素直にすっと身を離した。
「この後事務所に戻るんだよね?
じゃあ、ぼくの方も仕事が終わったら連絡するよ。
バイクで迎えに行くから」
響也は一方的にそう言い放って、法介の返事も待たずに資料室を出て行った。
ご機嫌な鼻歌交じりに。
一方法介はと言えば、未だバクバクと脈打つ心臓と赤い顔のまま、ただただ深い溜息を漏らすことしか出来なかった。
2008.04.13 up