とまどい
Act1
通常よりも広い浴室に一人取り残された法介は、未だ動くことも出来ず放心していた。
この部屋の持ち主は、さっさと姿を消してしまい、ここにはいない。
法介に驚愕と混乱を齎す言葉を告げて。
だから法介は呆然とその場から動けず、響也の言葉を懸命に理解しようと試みていたのだ。
『僕はキミのことがスキだ、アイシテイル』
確かにそんなことを言った。
あの牙琉響也が。
自他共に認める女好きのあの男がだ。
何度も何度も頭の中で響也から告げられた言葉を繰り返すが、一向に理解できない。
女の子にモテたいが為にバンドを結成し、今や多くの女性ファンを持つ響也が、何故男の自分にあんな告白をしたのか。
信じられないといった方が正しいのかもしれないが。
冗談なのか、からかわれているのか―――そのどちらかとしか法介には思えない。
それとも物珍しさか、勘違いか。
いずれにせよ、響也が自分に対して恋情を抱いているなど、これまでの響也の言動を思い返してみても、本気に取れる筈も無い。
ふと無意識に、呪縛に掛かったようだった法介の身体がようやく動いた。
持ち上げた手を、そっと自分の唇へともっていく。
(けど……キスされた……んだよな?)
自身に問い掛けて、法介は指先で唇をなぞった。
あっという間だった出来事―――けれど確かに法介は響也に口付けられたのだ。
夢とは到底思えない感触を覚えている。
響也自身も言っていたように、嫌がらせや冗談などで同性にキスできるものなのか。
己にそれを問い掛けてみれば、出てくる答えは「否」でしかない。
想像しただけで怖気立つ。
ではやはりあれは響也の本音だったということなのだろうか。
宣戦布告のキスだとも言っていた。
自分に恋人がいると誤解したままの響也が、絶対に振り向かせてみせるという意思表示の為に。
考えれば考えるほど、法介は混乱する。
そのもう一つの要因が、響也にキスされて嫌だと感じなかった自身の感情のことだ。
男とキスだなんて考えられないことなのに、どうしてか響也からのそれに対して嫌悪感はまるでなかったのだ。
ノーマルである法介にとっては、湧き上がってくるべきそんな当然の感情が不思議と生まれてはこなかった。
抱きたくなるだなんて、とんでもないことを響也に言われても、それは同様で……。
あまりの驚愕に、そんなものを感じる余裕がなかったのだろうか。
けれど、幾分冷静さを取り戻した今考えてみても、やはりそれは変わらなかった。
それはどうしてだと問いかけてみても、それに対する明確な答えは浮かんでこない。
何かによって自分の気持ちが塞き止められているような感覚がある。
そんな自分自身の感情を持て余した状態―――それは非常に法介を苛立たせた。
「ちくしょう!
ナンなんだよ!
どーして俺がこんなに悩まなきゃならないんだよ!」
それ以上深く考えることを放棄した法介は、自慢の大声で悪態を吐いて、浴室の床のタイルを拳で殴る。
すると拳はじんと痛んだが、気分はややすっきりとした。
ふぅーっと大きく息を吐き出すと、ようやく法介は立ち上がり浴室を出た。
いつまでもあそこでじっとしている訳にもいかない。
服を着たままシャワーを浴びせられた為に、濡れ鼠状態だった。
ここでしばらく世話になっていたことがある法介は、勝手知ったるなんとやらで、バスタオルやら着替えやらを勝手に拝借する。
着替えを済ませ、一息吐くと、今度は腹が派手な音を立てて鳴った。
酒は浴びるようにたくさん飲んだが、つまみ程度しか食べていなかったことを法介は思い出す。
そうするとまたふつふつと怒りが湧き上がってきた。
(ぜんぶアイツのせいだ!)
弱いくせに酒をあんなに飲んだことも、酔っ払いの男にキスされそうになったことも、腹が減るのも、空が青いのも、地球が丸いのも―――すべてがあの男の……響也のせいだと、法介は心の中で憤慨する。
それが理不尽なものだと分かってはいたけれど、一方的に自分の気持ちを告げて、さっさと消えた響也に対して恨み言の一つも言いたくなる。
ぶつぶつと一人文句を零しながらも、法介はキッチンへと向かった。
勝手に冷蔵庫の中を物色して、中に入っている材料で作れそうなものを瞬時に思い描く。
頭に浮かんだチンジャオロースのレシピに従い、材料を取り出すと、法介は険しい顔つきながらも料理を始めた。
法介の自宅の狭い台所と違い、ここは設備も器具も整っている。
法介が骨折して一週間ほど世話になった時、響也はここで毎日料理し、美味しい食事を提供してくれていた。
思えば多忙極める毎日であっただろうに、不思議と毎日早く帰宅しては、食事だけでなく、あれこれと世話を焼いてくれた。
響也本人は食が細いのか、それとも体型維持の為なのか、あまり食べなかったが、法介が勢い良く食べる様を嬉しそうに見つめていた。
優しい笑顔を浮かべて。
そんな響也の姿が脳裏に甦ってきて、法介は思わず頭を振った。
今はもうこれ以上、響也のことは考えたくない。
頭がこんがらがって、ショートしてしまいそうだ。
兎に角腹を満たすことだけを考えようと、法介は意識を料理することに集中させる。
野菜を切り、フライパンを火にかけ、油を敷く。
炒めて、味付けをして―――そんな一連の動作を手早く法介は進めていった。
しかし……いざ出来上がった料理を前に、法介は目を見開いて、絶句してしまう。
焦がしてしまっただとか、調味料を間違えたことに気付いたとか、そういったことではない。
出来上がった料理の分量が、自分一人が食べるにしては多かったのだ。
どう見積もってもそれは二人分。
無意識のうちに、響也の分も作ってしまっていたことに、法介はようやく気付いたのだった。
火を止め、しばらくチンジャオロースを仇を睨み付けるように法介は凝視する。
しかしその香ばしい匂いに胃袋が刺激され、再びグルル……と腹が鳴ると、法介は諦めたように溜息を落とす。
棚から皿を二つ取り出し、均等に盛り付け、一方の皿にはラップを被せた。
(捨てるのは、勿体無いしな)
そんな風に自分に言い訳しながら。
法介はダイニングテーブルに座り、食事を取りつつ、思い出したように再び深い溜息を吐く。
どれだけ振り払っても、意識から消えてくれないのはもちろんあの男のこと。
腹は立つし、苛々する―――けれど、響也のことは嫌いとは思えない自分が確かにいる。
だから料理も二人分作ってしまったのだろう。
自分自身の気持ちを持て余しながら、法介は思わず叫ぶ。
「王泥喜法介は大丈夫です!」
と。
実際は何が大丈夫なものか。
こんなにも心は激しく乱れているというのに。
けれどそう声に出して言わずにはいられなかった。
自分自身を奮い立たせ、まるで暗示をかけるかのように―――。
2008.03.29 up