For you


両親の顔を、法介は覚えていない。
まだ赤ん坊の頃に父は死んだと聞かされていたし、母は行方知れずだ。
写真の一枚も残っていないから、法介の中で父母は形のない影のような存在のままだ。
小さな頃は親がいないことに寂しさを覚えはしたが、成人した今となっては別に何の感慨もない。
自分を置いていなくなった母を恨む気持ちもなかった。
大人の事情というものがあったのだろうと、そんな風に思うくらいだ。

幼い時から両親がいないというその生い立ちのせいだろうか。
法介は独りきりで過ごすことに、特別寂しさを感じることもなければ、抵抗もない。
それは虚勢でもなんでもなく、却って他の人間に囲まれている時の方が、気疲れすることが多い。
他人と過ごす事が苦痛な訳でないのだ。
ただそのことに慣れてはいないだけで。

念願の弁護士となり、師匠である牙琉霧人が逮捕されるに至って、法介は成歩堂なんでも事務所に籍を置くこととなった。
成歩堂親子の性格はかなり常識から逸脱していると思うが、人には好かれるタイプなのだろう―――彼らの周囲には多くの人が自然と集まる。
とすれば、成歩堂の事務所で働いている法介は、必然的にそういった人達とかかわり合うことになる。
牙琉霧人は静寂を好む人で、落ち着いた環境で働いていた法介であったが、それが一変、日々騒々しさの中で過ごさなければならなくなったのだ。

その上、事務所での毎日はとにかく忙しかった。
それは哀しいかな弁護士としての仕事という意味ではなく、成歩堂親子の一般的生活能力のなさに由来する―――端的に言えば家事を含む雑用といった面でのことだ。
法介は日々ブチブチと文句を言いながらも、ついつい掃除やら料理やらの手助けをしてしまう。
一人暮らし暦が長いせいか、法介は家事全般はお手の物だ。
ただ自分の作る料理が美味しいのかどうかは、自身では全く分からなかったが、初めて手料理を振舞った時、みぬきにはいたく感激された。
成歩堂もみぬきという娘が出来るまで、一人暮らしだったらしいが、食事は外で済ますことが多かったらしい。
そのせいなのか、伝説の弁護士と呼ばれる彼だが、料理はからきしのようだ。

「美味しいです!オドロキさん!」
と箸を握り締めて、満面の笑みでみぬきにそう言われれば、法介とて悪い気はしなかった。
成歩堂は特に感想を述べるではなかったが、ご飯をおかわりする所から察するに、不味いとは思っていないのだろう。
そんな訳で、法介は成歩堂親子と食事を共にすることが多くなった。

いつの間にか、法介の周りには常に誰かしら人がいる状態が当たり前になってしまった。
独りで過ごす時間は格段に減った。
それに対し、疲れることはあれども、法介は特別不満を抱いてなかったし、当たり前になりすぎて意識することもなくなった。





そんなある時、成歩堂親子が旅行に出かけることになった。
町内のスーパーの福引で、成歩堂が一泊二日の温泉旅行当てたのだという。
「オドロキさんも行きましょうよ!」
みぬきはそう言って誘ってくれたのだが、法介はそれを固辞した。
当たったのはペアの温泉旅行だったし、親子水入らずのところを邪魔することも憚られた。
事務所を無人にするのも心配だった。
そういう時に限って、弁護の依頼があるかもしれないからだ。

最後まで渋るみぬきを宥めすかし、法介はその日の朝、二人を送り出した。
ふーっと溜息を吐き、いつも通りにまず事務所の掃除から始める。
普段ならば片付けたそばからみぬきが手品の道具を広げたり、成歩堂がソファを占拠して新聞やら本やらを読み散らかすので、なかなか掃除は捗らない。
しかし、今日はあの二人がいない為に、あっという間に片付け終わってしまった。
今まで手付かずだった過去の資料の整理までも、済んでしまう。

取らぬ狸の皮算用状態で、依頼人が現れることもなく、時間だけが過ぎていく。
特にすることがなくなった法介は、ソファに腰掛け、過去の判例集に目を通し始めた。
これまでは誰かが常にここに居たから、落ち着いてそんなことをすることも儘ならなかった。
新人の法介にとっては、そういった判例集を読むことも重要な勉強になる。
霧人の事務所にいるころには、よくこうして資料を熟読したものだ。

しかしそれに集中出来たのは最初の数時間だけで、法介は何故だか落ち着かない気分になる。
今日に限って、誰も訪ねてははこない。
いつもならば依頼人でなくても、誰かが姿を見せるというのに―――。

時計の秒針が刻む音が、しんと静まり返った事務所に響く。
自分以外の人の気配のない室内。
まるで自分だけがこの世界に取り残されてしまったかのように錯覚してしまう。
(馬鹿だな……そんなことあるはずないじゃないか)
思わず苦笑して、法介は頭を振る。

一体いつの間に、自分はここで齎される喧騒に馴染んでしまっていたのだろうか。
仕事を終え、帰宅して、自宅のワンルームで独りでいることは今でも変わらず平気だというのに、この事務所の中にあってはそれが通用しない。
どうにも胸がざわめく。
そうつまりは―――。
(寂しいんだよな、俺)
法介はそのことを自覚して、またも苦笑を漏らしてしまう。

疲れることの方が多いのに、ここでは誰かと過ごすに慣れてしまったのだ。
独りでいると寂しいし、つまらないし、何の張り合いもない。
何だか自分が小さな子供のようで、法介は情けなく思うが、それが真実なのだから仕方がない。
もしかして、みぬきはそういったことを察していたのだろうか。
だから執拗に旅行に誘ってくれたのだろうか。

時計に目を遣れば、もう正午は過ぎていた。
気分転換に昼食でも作ろうかと、法介は立ち上がる。
冷蔵庫の中身を頭の中で思い返し、メニューを決める。
しかし、どうにも億劫だった。
自分ひとりだけの為に、ここで食事を作るということが。
これもまた誰かのために料理するという行為が当たり前になってしまったせいなのか。

「参ったなぁ……」
思わず声に出して、法介は嘆息する。
孤独感や寂寥感など、ずっと縁のないものだと思っていたのに……。
いつの日か、もしこの事務所を辞めるようなことになれば、自分はそれに耐えれるだろうか。
一度暖かさを覚えてしまうと、寒さは余計に身に堪えるだろう。
「そんなこと今考えても仕様がないよな」
ぽつりと零して、法介は気持ちを切り替え、やはり外に食べに出かけようと扉へと向かった。

だが、法介が扉を開けるよりも前に、それは外から開かれた。
「やあ、おデコくん」
そんな声と共に現れたのは、響也だった。
法介はといえば、突然現れた響也に驚き、目を瞠る。

響也がここを訪ねてくることは、至極珍しいからだ。
成歩堂への苦手意識は薄れてはいないようで、ここに来て彼と出くわすことが嫌らしい。
そんな響也がやって来たものだから、法介は吃驚したのだった。
「ど……したんですか?牙琉検事。
珍しいですね、ここに訪ねてくるなんて」
「お嬢さんからメールを貰ってね。
今日から親子で旅行に行ってきますって。
なので、オドロキさんをどうかよろしくお願いします。
しっかり面倒を見て、可愛がってあげて下さいってさ」
にっこりと相変わらずの気障な笑顔を見せながら、響也は法介の問いかけにそう答えを返してくる。
身を屈め、法介に目線を合わせて。

「異議あり!
最後の部分は、思いっきりウソでしょうが!
そんなことみぬきちゃんが言うはずありません!
勝手に言葉をネツゾウしないで下さいよ!」
法介が声を荒げようとも、響也は至って平然としたままだ。
本当にいつもこの男はどうしてこうなのか。

「まぁ、裁判じゃないんだから、細かいことはいいじゃないか。
これからお昼に行くんだけど、おデコくんがまだならどうかなと思って誘いにきたんだよ。
このサビれた事務所で、ひとりムナしく食事をするのも憐れで、寂しいだろうと思ってさ。
ホント、優しいよね、僕って」
響也の自画自賛も、いつもならば法介が突っ込みの一つでも入れているところだ。
だが今日は違った。

素直に、こうして響也が訪ねてきてくれたことが法介には嬉しかった。
だからそれを正直に言葉にする。
「本音を言うと、牙琉検事の言うとおり、結構寂しかったんですよ……俺」
それは響也相手にだから素直に言えた言葉だ。
意地を張ってしまうこともあるけれど、珍しく今日は正直になれた。
偽りない本心を伝えることが出来る唯一の存在。
それは牙琉響也という人が、法介にとって特別な人間であるからだ。

法介の言葉に、今度は響也が面食らったようだ。
いつもは響也にからかわれたり、茶化されたりすれば、法介が意地になって反論することが殆どだったから、素直に認められて拍子抜けしたのだろう。
やがてそれが去ったのか、響也はまたふっと微笑む。
その笑顔は、気障でも作り物めいたものでもない、法介だけに見せる優しい温もりを湛えたものだ。
響也の中の法介に対する気持ちが、自然と溢れて形になるかのような。

「じゃあ、一緒に食事に行こう。
僕といれば寂しさなんてあっというまに消し飛んでしまうし、そんなことを感じさせやしないよ」
しかし、もう既にそれは果されていた。
彼の姿を見た途端に、法介が先程まで感じていた感傷めいた気持ちなどは、跡形もなく消えてしまったから。

「もし時間があるのなら、これから昼食作るので、ここで食べていきませんか?
ありあわせの材料で出来る簡単なものしか作れませんけど」
一人なら外にいくつもりだったが、こうして響也が一緒に食事してくれるのならば、先程は萎えてしまった料理しようという気持ちが再び湧いてきたのだ。
それに対して響也は嬉しそうに頷いた。
「おデコくんの手料理は、本当に美味しいと思うけど。
僕はキミの作ってくれる料理、スキだよ」

幾度か法介は響也に手料理を振舞ったことはあるが、その度にそうやって彼は褒めてくれる。
大袈裟なほど美味しいといって憚らず、綺麗に残さず食べてくれる。
たとえそれがお世辞だとしても、そうやってみぬき同様、反応を返してくれることは、作り甲斐があるというものだ。

「おセジなんかじゃないよ、おデコくん。
キミの僕に対する愛情がたっぷりつまってるんだ―――美味しくない訳ないじゃないか」
法介の心の中を読み取ったかのように響也は言い、そんなこっぱずかしい台詞をさらりと口にする。

アナタの為に愛情を込めて―――なんて、法介はもちろん告げたことはない。
響也ではないのだ、そんな恥ずかしい新妻のような台詞は言えるはずもない。
けれど口に出さないだけで、もちろん気持ちは篭もっている。
他に誰に作るものよりも、気合が入ってしまうことは秘密だけれど。

照れ隠しか、響也をひと睨みして、法介は小さなキッチンへと向かったのだった。



2008.02.23 up