unknown
Act8

タクシーが豪奢なマンションに到着し、法介は再び響也に引き摺られるようにして中へと連行される。
抵抗する以前に、法介の意識は酔いによる眠気で混濁しかけており、響也の為すがままだった。
自分が今置かれている状況すらほとんど把握してはいなかった。
響也はそんな法介に視線を投げ掛けるでも、話しかけるでもなく、険しい表情のまま法介を連れて自室へと向かう。

そうして辿り着いた部屋で、響也が躊躇する様子もなく向かったのはバスルームだ。
荒々しく浴室の扉を開けると、ようやく響也は法介を解放する。
しかしその動作は乱暴だった。
突き飛ばすようにして、法介を浴室の床へと転がしたのだ。
「イテッ!」
強かに全身を打ちつけた法介は思わず声を上げるが、響也は気に留める素振りも見せない。

その痛みで酩酊状態だった法介の思考が、僅かに覚醒した。
(ここどこだ……?みたことあるよーな、ないよーな……)
のろのろと上半身を起こしながら、法介はぼんやりと辺りを見渡す。
その眼差しがとあるところで止まった。
それは浴室の入口に立ちはだかり、無言で法介を見下ろす響也を視界に捉えたからだ。
冷たいその視線は、明らかな侮蔑と怒りを含んでいた。
こんな響也を法介は見たことがなかった。

「がり……」
法介がその名を呼び終わるより前に、響也の身体が動く。
シャワーのコックを捻り、ざーっと勢い良く流れ出るシャワーを法介の頭の上からかけたのだ。
「……っめたっ!」
頭上から降り注ぐそれは湯ではなく、水だった。
服を着ているいる為にある程度の冷たさは防げたが、それでも充分に冷たい。
思わず自分の身体を抱き締めるようにして、法介は腕を廻す。

さすがに一気に酔いが醒めていく。
最初の冷たさから僅かながらに守ってくれた服が、今度は水気を吸って纏わりついきて気持ち悪い。
法介はシャワーの水から逃げるようと身を捩るが、それを追うように響也はシャワーノズルを法介へと向ける。
寒さに震えながらも、法介はきっと響也を睨みつけた。
「やめろ!」
いきなり冷水を浴びせかけられるという響也の所業に、法介は思わず声を荒げた。
対する響也も、法介に負けず劣らずの険悪な眼差しで、法介を睨む。
「―――本当にイライラするな……」
それが久しぶりに法介へと向けられた響也の第一声だった。
いつもの明るく響く声ではない。
響也の今の心情を表すような低い声音。

「ふざけンな!
一体ナンのつもりだよ!」
喚きたてる法介に、響也は口元に嘲笑を浮かべ応える。
「助けてやったっていうのに、ズイブンなご挨拶だね。
偶然帰り道でキミの大きいだけがジマンの声が聞こえたから、様子をみにいってあげたんだ。
もしそうしなかったから、キミは今頃どうなっていたんだろうね?
それとも、あのままあのヨッパライに好きなようにされても良かったんだっていうのなら、今からもう一度あそこへ連れて行ってあげようか?
僕のバイクも置き去りのままだし、あの様子だとヨッパライのオジサンもまだ道路にコロがってるんじゃないかな」
響也の言葉に、法介の冷えた頭に居酒屋を出てからの記憶が蘇ってきた。

(そうだ―――俺……あのオジサンにキスされそうになったんだ……)
抵抗しようにも、酔いが回った身体は言うことをきかなかった。
それを現れた響也が助けてくれたのだ。
ぼんやりとではあるが、法介はそれを思い出す。

あのままでよかった筈はない。
寸でのところで響也に助けられたが、近付いてきた男の顔を思い出すだけでも怖気が走る。
となれば反論のしようがなく、法介はぐっと唇を噛み締めた。

すると響也はようやくシャワーを止めた。
「どうやらようやく酔いがサめたみたいだね。
タチの悪いヨッパライの相手をいつまでもしてあげるほど、僕もヒマじゃないんでね」
小馬鹿にしたように響也は言って、大仰に溜息をついてみせる。

水の冷たさから解放された法介はほっと安堵するが、同時にムカムカと怒りがこみ上げてきた。
助けて貰ったことは感謝しているが、元々法介が酔っ払う原因となったのは響也のせいなのだ。
響也の突然のキスや、その後の法介の存在を無視し続けるその態度に、原因が分からず法介のストレスは蓄積されていた。
それを発散させようと、法介は普段あまり飲まない酒を浴びるほど飲んでしまったのだから。

今を逃してしまえば、また響也と話す機会はなかなか得られないだろうと思い、法介は心の蟠りをぶつけることにした。
「アンタが悪いんだ……」
だが何となく響也の顔は見辛く、ぽつりと法介は呟いて、俯く。
垂れた前髪から、水滴がぽたぽたと零れ落ちた。
「僕がワルいだって?」
心外だと言わんばかりに、響也は眉を上げる。

「そうですよ……。
いきなりキ……キスしたかたと思ったら……俺のこと避けはじめたりして」
「よくもそういうコトが言えるね。
元はと言えば、キミが僕を避けだしたんだろう?」
「はぁ!?
あれはアンタが俺のことを恋人と間違えたから―――」
響也に非難され、思わず法介は顔を上げた。
責められるべきは響也であって、自分ではないのだと。
そう、思えばあの時から響也との関係がおかしくなり始めた。
熱で浮かされた響也が、法介を抱き寄せて、恋人と思しき誰かの名を呼んで「好きだよ」と囁いた、あの時から。

響也は軽く息を吐き出し、首を振る。
「キミさ、この間もそんなことを言ってたよね?
何かカンチガイしているようだけど……僕はコイビトの名を呼んだ覚えはないよ」
「それは熱を出していて、記憶にないだけでしょうが」
しかし、響也はそれをすぐさま否定した。
「違うね。
確かにあの時、熱はあって意識がモウロウとしていたことはジジツだよ。
でも、キミが看病してくれていることは分かっていた。
分かっていて、寒さにカコつけて、僕はキミを抱き寄せた」

「えっ?」
思いも寄らぬ響也の言葉に、法介はきょとんと目を見開く。
響也はどこか自嘲気味に笑って、そんな法介を見つめている。
「どうやらキミの耳には届いていなかったようだね。
あの時僕が呼んだのはキミの名前だよ―――王泥喜法介」

告げられた言葉の意味をすぐには理解できず、法介は瞠目したまま、固まってしまった。
(俺の名を呼んだ……?そして好きだって……言った?)
法介の頭の中を、響也の告白がぐるぐると駆け巡る。
呆然としたままの法介に、響也は浴室の床に膝をつき、法介と同じ目線の高さに合わせた。
「あのキスで、僕のキモチは伝わったものだとばかり思っていたよ。
けど、僕としたことが、キミがビックリするくらいに相当ニブいコトを忘れていた。
ハッキリ言わなきゃ伝わらないってことも。
ちゃんと言葉にするから、その広いおデコに今度こそよーく叩き込んでおくれよ」

響也は一旦口を閉ざすと、法介の濡れた頬をそっと両手で包み込んだ。
そうして触れ合うのかと思うほどに、顔を近づけてくる。
「僕はキミのことがスキだ、アイシテイル」
法介の間近にある響也の淡いブルーの瞳は、今まで見たことがないくらいに真剣で―――そして熱を帯びていた。
とても冗談を言っているようにも、からかっているようにも見えない。
腕輪も特に反応しなかった。

しかし、法介の混乱は深まるばかりだった。
「あのキスは……俺に対する嫌がらせじゃ……」
まず思い浮かんだ疑問が、法介の口をついて出る。
ずっとそう思い込んでいたのだ。
それに対し響也は、今日幾度目ともなる溜息を吐く。
「イヤガラセなんかで、オトコにキスできる訳ないだろう?
言っておくけど、キミ以外のオトコにあんなコトは死んでも出来ないね。
僕はキミに恋しているって気付くまで、オンナノコにしかキョーミはなかった。
僕がオンナノコが好きなことはキミも知っているだろう?
だからあのキスで、当然僕のキモチは伝わったって思ったんだよ……。
そのうえでのあれは決別のキスだった。
キミのことがスキだけど、法廷以外ではもうキミとかかわりあうのはヤめるっていうさ」

ますますもって法介は意味が分からない。
響也はそれを感じ取ったのだろう―――「やっぱりニブいなぁ」と呆れた様子でごちる。
「キミの口からコイビトがいるって聞かされて、僕はキミに近付くべきじゃないって思った。
キミがコイビトと幸せな日々を送っているのなら、僕はそれをジャマしないでおくべきだって決めたのさ。
キミと話せば触れたくなるし、触れれば今度はそれ以上のコトを求めてしまう。
そんなキミの傍にいればきっと耐えられなくなって、キミを無理矢理にでも手に入れてしまいたくなると思った。
だから……僕はキミを避けてたんだ」
「そんなこと―――」
「キミも僕の意図を汲んでくれているものだとばかり思っていたよ。
なのに、キミときたら僕が悪いと責めるわ、キスのイミも見事なまでに取り違えているし……マイッタよ」

(参ったのはこっちの方だ!)
思わず法介は心中で突っ込んだ。
そんなこと言われなければ、分かるはずがない。
言葉もないあの唐突な行動だけで、響也の真意を汲み取れる人間がどれだけいるというのだろう。
法介が鈍いと響也は言うが、きっとそれならば世の中のほとんどの人間もそうだと思う。

しかも響也も未だ勘違いをしている。
それは法介の恋人の存在だ。
勢いあまって言ってしまったそれを、響也は真実だと信じ込んでいるらしい。

「あの……俺―――」
口を開いた法介を遮り、響也は更に言葉を重ねた。
どこか吹っ切ったような笑顔と共に。
「でもさ、やっぱり止めにしたよ。
キミに近付かないで、身を引こうなんてらしくないことを考えるのは。
どう足掻いたって自分のキモチはギゾウなんて出来ないからさ。
キミのコイビトには申し訳ないけど、僕はキミの心をこちらに向けさせてみせるよ。
たださ、キミのことがスキだからって、僕もストーカーなんてみっともないものになるつもりはない。
だから聞くけど、僕のことが嫌いなら今すぐきっぱりと言ってくれないか。
キミがオトコ相手なんてとんでもない、絶対にありえないし近付くな……って言うなら、僕も諦める。
でも少しでもカノウセイがあるのなら、僕はこれからエンリョなくキミを口説かせてもらうよ」
どうだいと響也に目で促されて、法介は咄嗟に声が出なかった。

じっと響也の顔を見つめながら、しばらく考え、
「分か……りません……」
法介はそう呟くのがやっとだった。
響也のことを嫌っているということは断じてない。
嫌いだったならば、無視されようがどうしようが、きっと鬱憤など溜まらなかったし心も痛まなかったと思うから―――。
他の人間に対するものとは異なる響也への想いがあるのは確かだが、しかしそれは恋などではないと結論付けたのだ。
尊敬や羨望といった類のものを勘違いしたに過ぎないのだと。
その上、響也に嫌われているのは自分の方だと思っていただけに、急に「好きだ」と告白されても、まだ頭も心もぐちゃぐちゃで整理がつかない。

「分からない……か。
なんともチュウトハンパな答えだね、おデコくん。
じゃあさ、キミはあの時僕にキスされてイヤだと思った?」
そう響也に問われて、法介は眉根を寄せる。
「それは……その―――嫌じゃなかった……ですけど」
響也が真剣に訊ねているのに、はぐらかすようなことは出来ずに、法介は正直に答える。

響也にキスされても、嫌悪感など終ぞ湧いてこなかった。
ノーマルだと思っていた自分の性的嗜好がぐらついて、ショックを受けたものだ。
だが今日全く違う酔っ払いの男に迫られた時には、嫌悪以外のなにものも感じなかった。
響也に抱くことが出来なかったそれは、突然のことに驚いたからなのか、それとも響也のことを特別だと思っているからなのか、今の法介は判断できずにいた。

けれど、響也はとても嬉しそうに笑った。
「そうか、イヤじゃなかったんだね?
なら望みがナイわけじゃなさそうだ。
今はそれでジュウブンということにしておこうかな。
だたカクゴはしておいてくれよ、おデコくん、僕はキミを必ず手に入れてみせるよ」
言うや否や、響也の唇が法介の唇に重ね合わされた。
だが驚いた法介が反応するよりも先に、それは離れていく。

「今度のコレは宣戦布告のキスだよ、おデコくん」
いつもの彼らしく爽やかにウィンクして、響也は法介から身を離し、浴室を出て行く。
「このままキミの傍にいたら、無理矢理にでも抱いてしまいそうだから、僕は出掛けてくる。
訴えられるのはゴメンだし、そういうのはシュミじゃないしさ。
我ながら自分のリセイには恐れ入るよ……けどいつまでも僕が紳士でいられるとは思わないでおくれよ」
そう気障な台詞を残して、響也の姿はバスルームから消えた。
独り残された法介は呆然と響也の背を見送ることしか出来なかった。

こうして二人の関係はまた新たな転機を迎えた―――。



2008.02.01 up