安息
もうそろそろ日も沈もうかとする時間、携帯の着信を知らせる音が鳴った。
成歩堂なんでも事務所のテーブルの上に置いてあった携帯を取り出すと、法介は通話ボタンを押し、携帯を耳元にあてる。
「もしもし」
「―――やぁ、おデコくん。
久しぶりだね。
突然で悪いんだけど、今日は仕事の後、時間あるかな?」
電話口から聞こえてきたのは、響也の声だった。
世の女性達が虜になるのも分かる……気がする甘く響く声だ。
今はもう慣れたが、以前はこうして電話がくる度に、ドギマギしたものだ。
面と向かって話す時よりも、電話口の方が耳元で直接囁きかけられている気がするからだ。
(おや……?)
しかし今日はどこかその声に、少し張りがないように法介には思えた。
確証がある訳ではない。
気のせいかもしれない。
だがほんの微かな違和感を、法介は覚える。
「この後ですか?
ええ……特に予定はないですけど」
「なら、僕のマンションに来ないかい?
ようやく抱えていたシゴトが一段落してね……今日は早く帰れたんだよ」
ここ最近、とみに響也の仕事が忙しくて、会うこともままならなかった。
こうして電話が掛かってくるのも久しぶりだ。
法介の方も、連絡がないのは響也が忙しいからだろうと察して、そういう時にはこちらからも連絡は取らない。
仕事の妨げはしたくなかったし、逆の立場であったなら、響也も同じようにするだろうから。
法介が多忙な日々を送り、響也が暇を持て余す―――という事態が現実に起こり得るかどうかは別として。
連絡がなかったり、会えなかったりすることに対する不満は、法介にはあまりない。
元々淡白というか、一人で居るのが苦にならないタイプだからだ。
ただ会えるとなれば、それはもちろん嬉しくない訳ではない。
響也とは所謂恋人同士という関係なのだから。
「いいですよ、伺います」
法介がそう返答すると、響也からは「待ってるよ」との嬉しそうな声が返り、電話が切られる。
しかし、どことなくいつもと違うと感じた響也の様子に、小首を傾げつつも、法介は響也の自宅へと向かうことにした。
「いらっしゃい」
玄関先で法介を出迎えた響也はいつも通りの爽やかな笑顔だった。
だがやはりどこか変だと、法介はまたも首を傾げる。
端的に言うと、疲れているとか元気がないとか、そういう風に見えるのだ。
「牙琉検事……疲れてます?」
法介が問いかけると、響也はきょとんとしたように目を瞬いた。
「ベツに疲れてなんていないケド?」
それに対し、法介の腕輪が僅かに反応を示す。
けれどそれがなくとも、響也のことならば、法介は大抵分かるようになった。
例え少しの変化でも。
逆に法介が何かを隠そうとしても、響也には見抜かれてしまうのだけれど。
「……」
無言で、じっと響也を見つめる法介の視線に、響也も隠し立てできないと気付いたのだろう。
「キミには敵わないな」
と苦笑いしつつ、溜息を落とした。
「こんなところで立ち話もなんだし、中に入ってよ」
響也に促され、法介は今やすっかり馴染んだリビングへと向かう。
革張りのソファに腰を下ろすと、響也がその隣に座った。
こうして間近で見ると、端正なその横顔にやはり疲労の色が浮かんでいるのが分かる。
余程多忙を極めていたのだろう。
「ずっと連絡もできなくて、ゴメンね。
本当なら外で食事でもって誘いたかったんだけど、外に出るキリョクが沸かなくてさ。
おデコくんだって疲れているだろうに、急に呼び出したりしてすまない」
響也の謝罪に、法介は首を振る。
響也に比べれば、駆け出し弁護士の自分はかなり暇だと思う―――それはそれで情けなくはあるのだが。
どうやら響也は、ようやく取れたプライベートな時間を、長く会えなかった法介と過ごそうと、連絡をくれたらしい。
そう理解しながらも、法介はソファから立ち上がった。
「オレ、今日はもう帰りますね」
「おデコくん?」
「あっ、勘違いしないで下さいよ。
別にずっと会えなかったから怒ってるとか、拗ねてるとかそーいうんじゃないんで。
そんな可愛さはアイニクと持ち合わせていませんから。
今、アナタに必要なのは、休息なんです。
ムリをしてオレとの時間を作ってくれるよりも、ゆっくりと休んで下さい。
オレのことは気にせずに」
強がりでもなんでもなく、それが法介の本心だった。
ここしばらく響也があまり眠ってもいないだろうということは、容易に察しがついた。
きちんと食べてもいないのだろう。
いくら体力に自信があると言えども、そんな毎日を過ごしていたのではいつか倒れてしまう。
法介にしてみれば、今のような状態ならば、自分と過ごす時間を取るよりも、その間にしっかり休養して欲しいと思うのだ。
会えない、話せないことよりも、響也が身体を壊してしまうことの方が辛いし、哀しい。
二人で過ごすのは、響也が心身ともに万全な時で一向に構わないのだ。
今日しか機会がないという訳ではないのだから。
そうして去ろうとした法介であったが、その腕を響也が捕らえてそれを阻んだ。
振り返るよりも先に、法介の身体は強い力で引っ張られ、気がついた時には、ソファの上に組み敷かれていた。
「ちょ……っ、牙琉検事!?
オレの話聞いてましたか?」
もがく法介をもろともせず、響也は法介の首筋に口付けを落としてから、口を開く。
「聞いていたよ。
確かに今僕は物凄く疲れている。
キミの前ではカッコよくいつもの僕を見せたかったんだけど、まんまと見抜かれちゃうし……まいっちゃうよね。
でもムリしてキミとの時間を作ろうとしたんじゃないよ。
言葉が足りなかったね―――僕がおデコくんと一緒にいたかったんだ。
顔が見たかった、声が聞きたかった……キミにデンワしたのはその一心だった。
傍にいてよ、おデコくん。
キミと一緒にいられるこの時が、僕にとっては一番安らぐんだからさ」
言って、響也は法介の胸元に頭を擦り付けてくる。
まるで動物が甘えるような仕草で。
相変わらず恥ずかしい台詞を、よく何の臆面もなく言えるなと、法介は感心半分、呆れ半分で息を吐く。
自身の頬が熱くなったことには、気付かぬ振りをして。
法介は胸元にある響也の髪を、労わるように梳く。
サラサラと指触りのいい柔らかな髪が、法介の指の間を通っていく。
されるがまま、響也は気持ちよさそうに、目を閉じていた。
しかしそれだけでは足らなくなってきたのか、響也の手が法介の身体を弄り出す。
太腿から腰にかけての辺りを、執拗に撫で攻める。
明らかに性的な意味合いを含ませて。
「待っ……!
アンタ、疲れてるんでしょーが!
何を盛ってんでスか!」
驚き焦った法介が声を上げる。
疲れている時に、更に疲れることをしようとは、何を考えているのだと。
対して響也は悪戯っぽい笑みを浮かべて、法介の胸元から顔を上げた。
「ねぇ、おデコくん、知ってるかい?
ドウブツってさ、疲れている時ほどシたくなるんだって。
自分の子孫を残したいっていう、ホンノウらしいよ―――ウソかホントかは知らないけどね。
でも僕の今の状態を考えると、当たっているのかもしれないな」
「異議あり!
男のオレ相手に子孫を残すも何もないでしょーが!
根本から間違ってます!」
だいたいそんな説などかなり眉唾っぽい。
法介など法廷が終わって心身共疲れきっている時は、性欲なんてものは全く湧いてこない。
一刻も早く、寝床に潜り込んで眠りたいと思うだけだ。
それは法介が淡白なだけかもしれないが。
「まー、そんな細かいことはいいじゃないか」
あははと笑い飛ばして、響也は法介のネクタイを解き、服を脱がしにかかる。
いつもならそのまま流されるところだが、今日の法介はぴしゃりとその響也の手を叩いた。
「今日はダメです!
お願いですから、大人しくベッドルームに行って、眠って下さい。
絶対に今日はシませんから」
セックスよりも、今響也に必要なのは、やはり休息だと思う。
何と言われても、今日ばかりはゆっくりと休んで欲しかった。
身体を壊してしまっては、元も子もないではないか。
そんな法介の気持ちを読み取ったのか、響也はしぶしぶ手を止める。
元々法介が拒否すれば、響也はそれ以上コトを進めてはこないのだ。
だがかなり不満そうだ。
法介は溜息を一つ吐くと、響也の頭を引き寄せて、ちゅっと軽く唇を重ねる。
「これで我慢して下さい」
まるで小さな子供にするような、おやすみのキス。
それでも自分の身体を心配してくれる法介の想いを酌んで、響也は納得することにしたようだ。
「オーケイ」
言って響也は法介から身を離し、彼の身体をソファの上に引き起こす。
ただそれで終わりではなかった。
響也は再び横になったのだ―――法介の膝に頭をのせて。
いわゆるこれは「膝枕」という体勢だ。
法介が呆気に取られているうちに、響也は目を閉じる。
程なくして、響也の静かな寝息が聞こえてきて、我に返った法介は最早文句を言うことも出来なかった。
けれど安心しきったように、法介の膝の上で眠りにつく響也に、
「オレの前でまで、カッコつけなくてもいいんですよ」
そう呟いて、自然と優しい微笑が浮かぶことを法介は止められなかった。
2007.10.06 up