例外


響也がオフィスで今度担当する事件の資料に目を通している時、事務官が来訪者の存在を告げた。
そんなふうにアポもなく響也の元に突然訪ねてくる輩は、毎日相当数いる。
ファンだったり、記者だったり、法曹関係の人間だったりと、人気ロックバンドのリーダーとしても検事としても有名な響也との面会を願って。
しかし響也からしてみれば、その殆どは見知らぬ人間だ。
突然やって来る彼らの欲求を満たす為だけに裂く時間も気持ちも、響也は少しも持ち合わせていなかった。

外でならば笑顔の一つでも浮かべて相手もするが、このオフィスにいる間は仕事に集中することにしている。
従ってアポのない人間とは会わない。
たとえどんな地位の人間であっても。

響也はちらりと時計に目を遣って、溜息を落とす。
時刻は午後六時を回ったところだ。
世間では定時という時間なのかもしれないが、響也には関係ない。
まだまだすべきことは山積しているのだ。

響也は再び資料へと視線を向けた。
「この時間に約束のあるヒトはいなかったと思うけど?
そういうアポもないヒトとは会う気はないよ。
テキトーに断っといて」
いつもの事務官であったなら、響也がそんなことを言わずとも上手く処理しておいてくれる。
今日はその事務官が休みで、代わりの人間が代理を務めている為に勝手が分からなかったのだろう。

「承知しました。
王泥喜という名の弁護士の方のようですが、お断りしておきます」
その名を聞いた瞬間、響也ははっとして顔を上げた。
部屋を出て行こうとしていた事務官を呼び止める。
「ちょっと待って。
相手は王泥喜って名乗ったんだよね?」
事務官はきょとんとした顔で、頷きを返した。
先程まで全く来訪者に興味を示さなかった響也が、急に目を輝かせたからだ。

「彼ならここに通して貰って構わないよ」
前言を簡単に翻して、響也は資料を片付けると、立ち上がった。
今日の仕事はもう終わりと言わんばかりだ。
その変わりように面食らいながらも、「はぁ」と気の抜けた返事をした事務官が退出する。

法介がここを訪ねてくるとは、一体何の用だろうか?
骨折した法介の面倒をみるために、自宅に招いて一週間ほど過ごしたが、それが響也に大きな変化を齎すこととなった。
それは法介に対する気持ちだ。
ずっと気になる存在ではあったし、いつの間にか目が離せなくなっていた。
その法介へ向かう感情の正体が「恋情」であると、響也ははっきりと自覚するに至ったのだ。
法介の方はそんな風に想われていることなど、全く想像もしていないのだろうが……。

法介への想いに気付いた響也に、もう戸惑いはなかった。
それが自分にとって納得できる真実であれば、響也は世間一般的な常識には囚われない。
検事である自分が、真実を追究する為に、時に弁護士である法介を手助けすることになろうともそれはそれで構わない。
同様に、男である自分が同じ男である法介に対して恋していることも、それを自覚した時、自分の中ですっきりと納得できたのだから、何の問題もないのだ。
寧ろ男同士だからと、それを何かの間違いだとか、気の迷いなのだと思い込む方が心に違和感を覚える。

ただ自分の中では決着がついたが、今後どうするかということになると話は別だ。
こればかりは相手あってのこと。
法介はあまり恋愛の経験はなさそうに見えるが、同性同士の恋愛など範疇外の至ってノーマルなタイプだろう。
その法介に対して、これからいかに接していくべきなのかが、響也の目下の悩みだった。

法介への想いを断ち切るつもりも、諦めるつもりもない。
大人しく自分の胸の中にだけに秘めておく気も更々ない。
好きになったからには、当然法介の身も心も手に入れたい。

となれば前に進むしかないのだが―――法介を攻め落とす最善の方法が響也には分からないのだ。
それはこれまでの自身の恋愛に起因する。
恐らく恋愛の経験は人並み以上に豊富だとは思う……無論相手は女性ばかりだが。
しかし、自分から相手に告白したこともなければ、追いかけたこともない。
つまり響也自らが行動を起こさずとも、相手のほうから寄ってくるのだ。
だから今回のように、初めて自分が想う立場になった時、如何にすべきなのかが掴めなかった。

そんな響也でも、いきなり法介に想いを告げることは無謀だろうということは分かる。
現状だと、間違いなく冗談にして笑われるか、からかわれているのだと怒らせるかのどちらかだろう。
万が一真剣にそれを聞いて貰えたとしても、ノンケの法介に拒絶されることは明らかだと響也は考えていた。
(本当に……どうすべきなんだろうな……)
自分がまさかこんな風に恋に悩む日がこようとは思ってもみなかった。

「牙琉検事?」
訝しげに声を掛けられて、響也ははたと我に返る。
ふと意識が別のところへ飛んでいたらしい。
響也は声を掛けられるまで、いつの間にか部屋に通されていた法介の存在に気付かなかった。
「やぁ、おデコくん。
今日はどうしたんだい?」
いつも通りの爽やかな笑顔を作ることで、響也はすぐに平静を取り繕う。

それ以上法介は特に不審に思った様子はないようで、急な来訪を詫びる。
「突然約束もなしに訪ねてきてしまって、すみません。
前もって連絡しようと思ったんですけど、牙琉検事の携帯番号もここの電話番号も知らなくて……」
「いや別にそんなことは気にしなくてもいいよ」
さっきの事務官がいれば間違いなく「最初と言ってることが全然違う」と思われたことだろう。
響也にすればいかに矛盾してようが、法介訪ねてきてくれたことを考えると瑣末なことだ。
何事にも例外というものはある。

響也は机の上のメモ用紙に携帯の番号を書き付け、法介に手渡す。
もちろん仕事用ではなく、プライベート用の携帯の番号を。
「いつでも掛けてきてくれてイイよ」
と響也がにっこりと微笑むのに、法介は当然のことながらそれを社交辞令として受け取った。
本気でいつでも電話しても構わないような間柄ではないということくらい、理解している。
自分が響也の携帯番号を知らなかったと口にした為に、成り行きで教えてくれたに過ぎないのだと。
響也にしてみれば、それは本心から出た言葉だったのだが、哀しいかな法介には通じてはいなかったのだ。

「本当にその節は色々とお世話になってありがとうございました。
そのお礼にといっては少なすぎると思うんですけど、もし予定がないのなら、これから食事でも如何ですか?」
「僕から言い出したコトなんだし、別に気にしなくてもいいのに。
案外リチギなんだね、おデコくん」
「案外は余計ですけどね」
響也としてはその言葉通り、自分から誘った訳だし、それが多少強引であったことも自覚している。
そこまで恐縮されると、反対に哀しさも覚えてしまう。
まだまだ法介との隔たりを感じてしまって。

しかしそんなことは億尾にも出さず、響也は笑顔のまま頷いた。
「でもまぁ、お言葉に甘えてご馳走になろうかな。
丁度仕事も終わったことだしさ」
そんな嘘を平然と響也は吐く。
仕事は法介との食事の後からでも、多少睡眠時間を削ればいいだけのことだ。
想いを寄せている法介からの誘いを断るような愚かなことはするはずもない。
距離が離れているのならば、これから縮めていけばいい。
そのチャンスをみすみす逃す手はないだろう。

響也が食事の誘いを受け入れたくれたことに、法介は安堵した様子だ。
「何か食べたいものはありますか?」
「いや、ベツに……キミにお任せするよ、おデコくん」
響也がそう答えると、法介は「うーん」と額に指をあて、考え込みはじめた。
審理の時にもよく見せる仕草だ。
その時、口が尖っていることを、法介は気付いているだろうか。
思わずキスしたくなるような形に―――。
ここで突然キスしたら、法介は一体どうするだろうかと、響也の中で一瞬そんな悪戯心が湧いてくるがそれは耐えることにする。

「やっぱりフレンチのフルコースとか……そーいうのがイイ……ですかね?」
そう問い掛ける法介の声は、心持ち小さい。
きっと財布の中身を、頭の中で換算しているに違いない。
ぷっと思わず響也は吹き出してしまう。
「ムリしなくてもイイよ、おデコくん。
そんなのは食べ慣れてるからさ。
それよりキミがいつも行くようなお店に連れて行っておくれよ」
「ううっ……誘っておきながら、スミマセン」
やはり余程寒い懐具合なのだろう。
法介は素直に謝りつつも、安堵の息を吐いた。
「やっぱり検事って儲かるんだなぁ……」
とぶつぶつ呟いているのが聞こえて、響也はまた笑ってしまった。





そうして結局、法介と並んで座っているのは、ラーメンの屋台だった。
屋台には「やたぶきや」と暖簾が掛かっている。
しかし法介が進んでここに響也を連れてきたのではなく、二人で歩いている時に丁度この屋台の主人と出くわしたのだ。
ご自慢のしょっぱいラーメンを是非食べていけと、半ば強引に屋台に座らされたという訳だ。

「まったくもってスミマセン」
法介は心底申し訳無さそうに、響也に詫びる。
「なにが?」と、響也は聞きはしなかった。
訊ねずとも分かる―――ご馳走しますよといっておきながら、なりゆきとはいえラーメンの屋台になってしまったことを謝罪しているのだろう。
だが響也としては、何ら不満も感じなかった。
「別にイイんじゃないかな?
ラーメン嫌いじゃないし」
響也の言葉に、法介は目を丸くした。
「そーなんですか?
なんていうか……牙琉検事って……こう常に高そうなものを食べてるイメージが……」
それに対して響也は苦笑う。
「スゴイ勘違いだね、それ。
僕だってラーメンくらい食べるし、カレーだってファーストフードだって食べるよ。
食事に時間を掛けれない時とか、手軽に済ませたい時も多いしね」
「へぇー」
法介は妙に感心しているようだ。

それは偽りでもなんでもなく、真実だった。
別段高ければ美味しいというものもないし、基本的に響也は食事にあまり重きを置いていない。
余程のものでない限り、エネルギーを補給できればいいというのが響也の考えなのだ。

出てきた熱々のラーメンを二人で啜る。
―――本当に半端なくしょっぱい。
隣の法介は顔を顰めながらも、「でもこれはこれでクセになるんですよね……フシギなことに」と呟いて、箸を止めようとはしない。
確かについつい食べ進めてしまう、不思議な味だ。

世間的に言えば、多分美味しいとは言い難いものだと思う。
けれど、響也は今口にしているこのラーメンが、とても美味しく感じた。
それが何故かは理解している。
法介とこうやって肩を寄せ合うように隣同士に座って、一緒に食べているからだ―――。
有名な一流シェフが作った料理を法介以外の誰かと食べるよりも、法介とラーメンを食べる方が美味しいに違いない。

そんなほんのり幸せな気分に浸りながら、響也は法介とのひとときを過ごすのだった―――。



2007.09.22 up