痕
「良かったですね、オドロキさん!」
成歩堂なんでも事務所に顔を出した法介は、そんなみぬきの明るい声に迎えられた。
みぬきの視線は、法介の左腕に注がれている。
そう―――今日ようやく骨折した左腕のギプスが取れたのだった。
「……ありがとう、みぬきちゃん」
本来なら清々しい気分でそれに答えるところだったが、法介の顔色は優れない。
決して嬉しくない訳ではないのだ。
青白い顔色で、辛そうに言葉を発する法介に、みぬきが小首を傾げる。
「どーしたんですか?
折角ギプス取れたのに……」
「ううっ……ちょっと二日酔いでさ」
法介はこめかみを押さえながら、ズキズキと響く頭痛に耐える。
「うわっ!
本当ですね!
オドロキさん、お酒くさい!」
法介に傍に寄ってきたみぬきが、法介の耳元で声を上げる。
それがまた法介の頭に響くのだ。
「や……やめてくれ……みぬきちゃん」
「えーっ!
今日はオドロキさんの快気祝いに、ぱーっとご飯でも連れて行って貰おうと思ってたのにっ!
そんなんじゃ行けないじゃないですか!」
よれよれの法介の言葉を聞いてるのかいないのか、お構いしなしにみぬきは法介の傍で喚く。
(か……勘弁してくれ……っていうか、今のニュアンスだと祝われる立場の俺が奢るのかよ!)
最早慣れになってしまった心の内での突っ込みをしつつ、ここに立ち寄ったことを法介は激しく後悔するのだった。
ようやくギプスを病院で外してもらった後、素直に自宅に帰って寝ていれば良かった。
だが一応ここが法介の職場であるのだし、色々心配も掛けたことだろうと思い、報告に立ち寄ったのだったが……。
事務所にはみぬきがいただけで、成歩堂の姿は見えなかった。
しかし、昨夜は飲みすぎた。
あまりアルコールに強いほうではないのに、口にしたワインがあまりにも美味しくて、ついつい調子に乗ってしまったのだ。
さすがあれだけの豪華マンションを自宅にしているだけはある。
提供してくれるものは食べ物だけではなく、何であれ高価そうなものばかりだった。
法介は今日ギプスが取れるまでの一週間ほど、とても世話になってしまった牙琉響也の顔を思い出す。
本当に法介の想像以上に、響也は良くしてくれた。
すぐに人をからかってくる所と、過剰なほど自信に溢れている点は頂けないが、法介の中で響也の株はこの一週間で大きく上がった。
昨日も酔いつぶれてしまった自分を、ベッドまで運んでくれたのは響也だ。
その辺りまでの記憶は朧げながらあるのだが、そこから先はてんでない。
頭痛と共に目が覚めたら、朝だった。
何にせよ、結局最後まで世話になりっぱなしだったことは確かだ。
(改めてちゃんと御礼しないとな)
痛む頭の片隅でふとそんなことを考える法介だったが、
「だいたいズルいですよ!オドロキさんだけ!」
みぬきにまた耳元で名を呼ばれ、否が応でも現実に引き戻される。
「は?いきなり何?
ズルいって言われたって俺には何のことか……」
みぬきの気迫に圧されるように、法介は思わず後じさる。
いきなりそう責め立てられても、何のことだか分からないし、心当たりもない。
ひき逃げにあった挙句、骨折して散々な目にあったのに、何か羨ましがられるようなことなどあっただろうか。
「ガリュー検事ですよ!」
「あ……あぁ……」
ようやくみぬきの言わんとしていることが、分かった気がする。
この少女は今やすっかりガリューウエーブに夢中なのだ。
そのボーカリストでもある響也の自宅で、法介が世話になったことをズルいと言っているのだろう。
確かにとても世話になり、感謝しているが、こんな風に責められる程にそれは羨ましいことなのか。
世の女の子達にとって、牙琉響也という男はそんなにも焦がれて止まない存在ということか。
どうも法介にはぴんとこない。
本音を言えば、同じ男として多少の羨ましさ妬ましさがないことはなかった。
だが異性の視線を釘付けにしている響也に対して、別段対抗意識を燃やして分からない振りをしているのではないのだ。
それは今まで法介が恋愛に対して、非常に淡白であったからかもしれない。
法介とて立派な成人男子だ―――これまで恋愛の経験がなかった訳ではない。
しかしそれほど相手に恋焦がれ、執着したということもなかった。
現実の恋愛だけでなく、アイドルや女優といった所謂テレビの中の偶像に熱中した記憶もない。
だから、響也に熱烈な黄色い声援を飛ばす女の子達の気持ちが、法介にはいまいち分からないのだ。
第一法介にとって響也は、「芸能人」ではなく「検事」という認識の方が余程強い。
それほど遠い存在には思えなかった。
「そんなみぬきちゃんが思ってる程、羨ましいことなんて別に……」
宥めようと言いかけた法介の言葉を遮るように、みぬきは叫んだ。
「誤魔化そうとしたって、ムダですから!
みぬきはちゃーんと知ってるんですよ!
オドロキさんが、ガリュー検事とドウセーしているんだってこと!」
みぬきの台詞が法介の中で理解されるまで、しばしの時間を要した。
それほど突拍子もない言葉だった。
ようやく法介の頭でそれが消化されたと同時に、法介もまた叫び声を上げてしまう。
「俺と牙琉検事が同棲!?」
自分が発した大きな声は、二日酔いの頭にガンガンと響く。
だが今はそんな痛みを感じている余裕などなく……。
「いやいやいやイやイヤ……!
みぬきちゃんさぁ、その……ど…同棲って言葉の意味分かってる?」
きっとそう―――みぬきは大きな勘違いをしているに違いない。
同棲というのは恋人同士が一緒に住むことであって、断じて自分と響也はそういう関係な訳ではない。
ただ一週間ほどお世話になっただけで、今日からはもちろん一人暮らしの自宅に帰る。
あれは同棲などではなく、言うなればただの居候だ。
焦る法介を尻目に、みぬきはぷぅっと頬を膨らます。
「みぬきだってもう子供じゃないんですー。
そのくらいの意味分かってますよ!
つまりパパとみぬきみたいなものでしょ?」
「マッタクもって違うから!」
流石に法介はすかさず声に出して突っ込む。
「えぇ、違うんですかぁー」
みぬきは釈然としない様子で、口を尖らせる。
ハハハ……と力ない笑みを浮かべながらも、法介は胸を撫で下ろした。
やはり思った通りの結末だったと。
しかしその安息は、
「でもみぬき、ガッコウとかビビルバーとかで色々な人に言っちゃったんだけどなぁ……。
オドロキさんとガリュー検事がドーセーしてるって」
というみぬきの呟きによって、一瞬のうちに消し飛んでしまう。
「ちょ……ちょっと待ってよ、みぬきちゃん!
それまさか……本当に……」
「みぬきは嘘なんて言いません、多分!」
えっへんと胸を張るみぬきとは対照的に、法介は眩暈を覚えた。
世間の人達がどうかみぬきの言葉を本気に取りませんようにと、祈ることくらいしか出来ない。
みぬきというこの世の常識から大きくズレた女の子を知る人達なら、きっと何事もなかったかのように笑い流してくれそうだが……。
「だいたい……同棲だなんて言葉何処から出てきたんだよ?」
みぬきにはただ響也に世話になることになったと言っただけで、法介が同棲などと口に出したことはもちろんない。
なんとなく犯人の顔が脳裏にはちらついたが、とりあえず聞いてみる。
「それはもちろんパパですよ!」
予想通りの答えに、法介はがくりと項垂れる。
「随分と楽しそうだね」
絶妙のタイミングで事務所の扉が開き、諸悪の根源たる成歩堂龍一が姿を見せた。
ニット帽にパーカー、サンダルという変わらぬスタイルに、いつも通り飄々とした表情である。
「パパ、お帰りなさーい」
「ただいま」
成歩堂は娘へと挨拶を返した後、法介に目を留め、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「おや、オドロキ君、とうとうギプス取れたんだね。
それはそうと牙琉検事との同棲生活はどんな感じだい?」
「成歩堂さん……アナタという人は……」
恨みがましそうな視線で法介に睨みつけられようとも、成歩堂は平然としている。
(俺……この人に恨み買うようなことしたっけ?)
と考え込むほど、法介は成歩堂にいつもこうしてからかわれるというか、弄られる。
響也にしろ成歩堂にしろ、法介が返してくる反応が面白いものだから、ついからかってしまうのだ。
そんな根っからの弄られ体質だということに、法介本人は気付いていない。
「オドロキ君、骨折前より随分と色艶が良くなったんじゃない?
さぞ牙琉検事にオイシイもの食べさせてもらったんだろうね。
羨ましいなぁ……同棲生活」
「同棲同棲と、激しく間違ったイカガワシイ言葉を繰り返さないでくださいよ!
確かに美味しいものは沢山ご馳走になりましたけど……今日からは当然自宅に戻りますから!」
法介の反論を聞いているのかいないのか、成歩堂は深々と溜息を吐いて首を振る。
その仕草が妙に演技がかっているのは、法介の気のせいではない筈だ。
「みぬき……聞いたかい?
僕達がひもじい生活を強いられている中、オドロキ君は贅沢三昧だったらしいよ。
それは人としてどうかと思うんだ……」
「そーですよ!
オドロキさんヒドイ!ゴクアクニン!ヒトデナシ!」
親子揃って都合のいい部分しか耳に入っていないらしい。
「わ……分かりましたよ!
今日は無理ですけど、今度何でも好きなものご馳走しますから!」
法介がそう言うと、成歩堂とみぬきは顔を見合した。
「釣れたね、パパ!」
「うん、釣れたね、みぬき」
いつかどこかで聞いたことのある会話を、親子は交わす。
それを引き攣った笑みで眺めながら、法介は今日ここに立ち寄ったこと―――否、再就職先にここを選んだことを後悔せずにはいられなかった。
「あれ?
オドロキさん……そこ、どーしたんですか?」
みぬきがふと気付いたように、法介の首筋を指差した。
「え?」
法介は反射的に視線を下向けるが、当然自分の首筋は見えない。
するとみぬきがやおらお馴染みのパンツを手にしたかと思うと、そこから手鏡を取り出した。
「はい!みぬきのパンツは小宇宙ですから」
そう言って差し出された手鏡を受け取った法介は、普通に出せよという突っ込みを心に納めつつ、それで自分の首筋を写す。
確かに首筋に、小さな鬱血の痕らしきものがあった。
「……昨日までこんなのなかったと思うんだけど」
独り言のように呟いて、法介は首を傾げる。
寝ている間に虫にでも刺されたのだろうか。
「虫にでも刺されなのかなぁ……」
なんだか違うような気がしないでもないが、心当たりもない。
すると突然、成歩堂がぷっと堪らない様子で吹き出した。
「ククク……ッ、面白いなぁ、オドロキ君。
そうか虫……ね。
どうやらオオカミにはなれず仕舞で、その上虫刺されか―――可哀想に」
「はぁー?」
一体成歩堂は何を言っているのだろうか。
オオカミだの可哀想だのと、法介にはさっぱり意味不明だ。
しかし結局いつもの如く、成歩堂がその意図するところを法介に話してくれることはないままだった―――。
2007.08.25 up