涙の
理由
響也が地方裁判所のラウンジのような休憩スペースの傍を通りかかった時、そこに法介がいるのに気付いた。
知り合いらしい煙草を手にした何人かの弁護士に取り囲まれるようにして、法介は立っていた。
何故それが弁護士だと分かったかというと、簡単なことだ。
法介と同じバッジを彼らが襟元につけていたからだ。
法介を囲む男達は笑っていた。
そして法介も笑っている。
だがその笑いの性質が全く違うことは、響也には一見して分かった。
男達のものは法介に対して蔑むような、馬鹿にしたような、悪意の籠った笑み。
一方法介の方は、どこか諦めたような、彼らしくない愛想笑い。
友好的に会話を楽しんでいるという様子は、両者の間にからまったく感じられなかった。
「自分の師匠を告発するって、一体どんな気分なんだ?」
「恩人ともいうべき人をいともあっさり切り捨てるなんて、僕にはとても真似できないよ」
「まぐれで司法試験を通って、弁護士になったからっていい気になっているんじゃないのか?」
法介より僅かばかり年上かと思われる男達が口々に捲くし立てる。
そんな風に法介へ向けて発せられる毒を含んだ言葉が、響也の耳にも聞こえてきた。
しかし法介は静かに微笑みを浮かべたまま、何も言い返そうとはしない。
ただ黙って、それらを享受している。
「なんだか、楽しそうな話をしているね」
響也が声を掛けると、男達ははっとしたように口を噤んだ。
響也の顔を見て、一様にバツの悪そうな表情になる。
「牙琉検事じゃないですか、こんにちは」
法介だけが至って普通の挨拶を返してくる。
だがそれは今この場の雰囲気にはそぐわないだろう。
響也は呆れて溜息を落とす。
自分の置かれている状況が分かっていないのかと。
「煙草の煙は、キミご自慢の大声に良くないよ。
さぁ、行こう」
響也は法介の腕を取り、その場から彼を連れ出したのだった。
「どうしてナニも反論しなかったんだい?
まさかキミに向けられていた悪意に気付いていなかったワケじゃないよね?」
手近に合った控え室に入り、響也は掴んでいた法介の腕から手を離す。
何故か無性に響也は腹が立っていた。
あんなくだらないことを集団で恥ずかしげもなく言うあの男達のことも。
そしてそれを黙って受け止めてた法介に対しても。
法廷ではこちらが呆れるほど諦めず反論してくるのに、何故言われるがままに任しているのかと。
法介は響也の問いかけに対して、苦笑を浮かべる。
「変なトコロを見られちゃったなぁ……。
いくら俺が鈍いって言っても、あの人たちが俺のことをバカにしていることくらい分かっていますよ。
でもああいう人達に何を言い返してもムダですからね。
相手は俺の言葉なんて聞こうともしないし、納得なんてするはずない。
言いたいヤツには好きなように言わせておけばいいんです。
あんなことでエネルギーを使いたくないし、傷付くほど俺はセンサイじゃありませんから」
強がっているのでもなんでもなく、それが法介の本音のようだった。
「キミは意外とクールだよね」
響也は前々から感じていたことをぽつりと零した。
法廷では依頼人の為に一生懸命だというのに、平素では至って落ち着いている。
外見は童顔だというのに、顔に似合わず、案外毒舌でもある。
自分自身のことには、然程頓着もないらしい。
「そーですか?
そんなことないと思いますけど」
自分では気付いていないのか、法介は不思議そうに首を傾げた。
「陰口っていうか、ああいうのには慣れてるんです。
ほら俺、小さい頃から両親がいないんで、昔から色々言われることがありましたからね」
平然とそう言い放って、からからと笑う法介に曇りはない。
法介の生い立ちを、響也は詳しく知る訳ではないが、それでも両親がいないことは聞き及んでいた。
これまで相当な苦労があっただろうに、法介がそれを表に出すことはない。
両親のことを恨んでいる様子もなかった。
そんなことをしても、両親が現れる訳もなく、現実が変わるということもない。
ある種前向きなのだろうが、諦めとも取れる感情が、ずっと昔から法介の中に大きく根を張っているように響也には思えた。
それが日常の法介の淡白さに起因しているのかもしれない。
「おデコくん……」
「あ、そんな顔しないで下さい。
俺、ホントーに自分のことを不幸だなんて思ってませんから。
結構イイ人達に囲まれているなって感じているし」
法介の曇りのない綺麗な瞳が、どこか辛そうな響也の表情を映し出していた。
そこではたと響也は我に返った。
同情なんてものを法介は求めていないし、第一そんなものは彼に対して失礼だ。
響也は軽く頭を振って、微笑を作る。
「そのキミが言うイイ人達の中には僕も入っているのかな?」
すると法介はクスリと小さく笑う。
「さぁ……どうでしょうね」
「えー、ヒドイじゃないか!おデコくん。
ここはすぐにキミの大声で『当然です!』っていうのが、レイギっていうものだろう?」
ワザとらしく響也は口を尖らせるが、法介はどこ吹く風だ。
「アナタにだけは礼儀ウンヌン言われたくないです」
お互い顔を見合わせて、ぷっと吹き出し、その場はそれで終わったのだったが―――。
そのことがあってから、数日経ったある日のことだった。
またも地方裁判所の中で、響也は法介と出遭った。
出遭ったというよりも、騒ぎを聞きつけ、駆けつけたと行ったほうが正しい。
そこには既に人垣が出来始めていて、響也はそれをかき分けて前へと進む。
一番前まで出て、視界が開けると、そこには一人の巨漢と言っても差し支えのない体躯の男に、物凄い剣幕でくって掛かる法介の姿があった。
その相手は見覚えのある男だった。
確か先日法介に絡んでいた弁護士のうちの一人だ。
法介より背も体格も格段に勝っているその男に対し、彼は顔を真っ赤にしながら、臆することなくその胸倉に掴みかかる。
「取り消せよ!
今言ったこと取り消して、謝れ!」
怒鳴る法介に対し、最初は面食らっていた男も我を取り戻したのか、法介を睨みつけた。
「煩い!離せ!」
胸倉を掴む法介の手を男は振り払おうとするが、法介はそうはさせまいと力を込める。
するとそれにカッとしたらしい男が、自分の身体を捻り、法介がバランスを崩した所で、己の手で思いきり法介の身体を薙いだ。
鈍い音がして、法介の身体はそのまま床へと叩きつけられる。
にもかかわらず、法介はすぐに顔を上げ、怯んだ様子もみせずに、再び男に飛び掛って行ったのだ。
恐らく男の手が顔面にあたったのだろう―――法介の頬は赤く腫れ、口端からは血が滲んでいた。
痛むだろうに、法介は自分のそんな状態を気に留める素振りもない。
懲りもせず向かってくる法介を、相手は虫でも追い払うが如く、法介の襟元を掴むと床へと転がす。
まるで大人と子供の喧嘩だ。
それでも法介は諦めない。
何度相手から振り払われようが、男に挑みかかっていく。
「オマエが取り消して、謝るまで俺は絶対赦さないからな!」
ここまで怒り狂う法介を、響也は見たことがなかった。
何をそこまで法介は怒っているのだろう。
つい先日、法介のことをクールだと評したばかりだ。
いかに馬鹿にされようとも、全く気にも留めていなかったというのに―――。
そんな法介の変わり様と、凄まじい怒気に、響也はただ呆気に取られてしまい、動けずにいた。
法介の方も、相手の男のことしか目に入っていないのか、響也に気付いた様子はない。
「どうして僕が謝らないといけないんだ!
僕は本当のことを言ったまでだろ。
だいたい君のことを言った訳でもあるまいに、何をそんなに怒っているんだか!
殺人者の弟が今も平然と検事を続けているなんておかしいだろうが!
あの男だって裏で何をしているか分かったもんじゃない。
天才だなんだとおだてられてるが、検察側に不利な証拠や証人を握りつぶしているに決まってるさ!
あの兄にしてあの弟ありだ。
まったく、法曹界の面汚しだね!!」
法介の身体を床へと叩きつけ、男は歯を剥いて口汚く罵る。
法介は激しく頭を振り、立ち上がると、嘲笑を浮かべる男へまたも立ち向かっていく。
「また言ったな!
ふざけンな!
あの人がそんな卑怯な真似をする訳がないんだよ!
なんにも知らないくせに、勝手な妄想であの人のことを侮辱するな!
あの人がどれだけ真実を追究することを大事にしているか……どんな想いで肉親の罪を暴いたのか!
あの人はそれがどれだけ辛いことであったも、決して真実から目を逸らそうとはしない!
取り消せっ!」
怒鳴る法介の瞳から、涙が溢れて零れ落ちる。
それを拭おうともせず、法介はただただ相手から謝罪の言葉を引き出そうと躍起になっていた。
ここに至って、響也にもようやく法介が怒っている理由がみえてきた。
彼はやはり自分のことで怒っていたのではないのだと。
(僕の悪口を言われたから……?)
恐らく相手の男は、先日響也に割って入られたことが気にくわなかったのだろう。
その矛先を響也へと向けたところ、それを聞いた法介が切れたのだと悟った。
「しつこいヤツだな!
いい加減にしろっ!」
ボロボロになろうとも、何度も何度も掴みかかってくる法介に、相手の男もとうとう業を煮やしたのか、拳を振り上げた。
躊躇うことなく、男はそれを法介目掛けて繰り出す。
しかし、男の手が法介に触れることはなかった。
男の拳を受けたのは、響也の掌だった。
「そこまでだ」
言って、響也は男の手をそのまま軽々と捻りあげる。
「ここから先は僕が相手をしてあげてもイイけど?
多分その代償は高くつくと思うよ」
にっこりと響也は笑うが、その視線は氷のように冷たい。
ひっと男が息を呑む。
響也が男の手を解放し、今度は男の胸元を掴んでいた法介の手をそこから離さすと、男は威厳を取り戻そうとするように一つ咳払いをし、肩をいからせて去っていった。
「離して……下さいっ!
まだアイツとの話は終わっていない!」
暴れる法介の腕を捕らえたまま、響也は首を振った。
「もういい……おデコくん。
そんなことより早く頬を冷やさないと……だいぶハれてるよ?
唇も切れているし」
響也はそれでもなお怒りが収まらない法介を、人垣を割り、引き摺るようにして強引に医務室に連れて行ったのだった―――。
運の悪いことに、医務室の医師は丁度席を外していた。
ここに来るまでに、少しは法介も頭が冷めたのか、もう暴れはしなかった。
そこで響也は法介を椅子に座らせると、薬が納められている棚を勝手に探る。
そこから消毒液を取り出すと、ガーゼにそれを浸し、法介の切れた唇の端を拭う。
「イッ……」
傷口に染みるのか、法介は顔を歪めた。
「オトコノコなんだから、これくらい我慢しなよ」
小さく笑って、手早く響也は消毒を済ます。
その後、タオルを冷水で絞り、響也は腫れあがった法介の右頬にそれを充ててやる。
「僕の為にあんなにも怒ってくれたのかい?」
簡単な治療を一通り終え、法介の向かいに腰を降ろした響也は静かにそう問い掛ける。
すると法介は膝の上で硬く拳を握り締め、俯いてしまう。
そこからぽたぽたと零れ落ちてきた雫が、法介の拳の上で跳ねた。
「俺……悔しくて悔しくて……我慢できなくて……。
牙琉検事のこと知りもしないくせに……アイツ、いい加減なことばかり言いやがって……。
どうしても赦せなかった……」
自分の傷の痛みでも、辛さでもない―――法介は悔しくて堪らず涙を流しているのだ。
先程も、今も。
響也に対する罵詈雑言が赦せなくて、法介は酷く憤り、泣いている。
自分自身の悪意に対しては、あんなにも冷静で平然としていた法介が。
響也はタオルを充てているのとは別の、もう一方の法介の頬にも手を伸ばすと、彼の顔をそっと持ち上げた。
法介は唇を噛み締めて、何とか涙を堪えようとしているようだが、それは絶えることなく次々と溢れてくる。
泣き顔を見られるなどみっともなくて、法介は再び顔を伏せようとするも、両頬を包み込む響也の手がそれを許さなかった。
「泣かないで、おデコくん。
あんなオトコの言葉より、キミの泣き顔を見る方が、よほど僕は哀しいよ」
宥めるように優しい声音で響也は囁く。
響也は法介の笑顔がとても好きだった。
見ているこちらまで幸せにしてくれるような、明るいその笑顔が。
その法介の泣き顔など、見ているだけで胸が痛む。
「でも―――ありがとう。
キミがあんなにも怒って、泣いてくれたこと……それだけキミが僕を想っていてくれるからだって、僕は自惚れてもイイのかな?」
響也の柔らかな微笑みに、悔しい気持ちは消えはしなかったが、法介も徐々に感情の昂りが落ち着いてくる。
「さぁ……どうでしょうね?」
気持ちを落ち着かせる為、深呼吸し、法介は先日と同じ台詞を返した。
すると響也は軽く肩を竦める。
「またかい?おデコくん。
ここは『もちろんです!』って力強く返すべきところだろうに」
とは呆れて言うものの、響也は嬉しかった。
言葉にされずとも、法介の今日の行動を見れば全て明らかだ。
彼の寄せてくれる想いを感じ取ることができる。
他の誰にも分かってもらえずとも、法介だけが自分のことを理解してくれていれば構わない。
その逆は耐えられないとも思う。
そして、こんな風に決して自分のためではなく、他の人間のために怒り、泣いてくれる法介のことが誇らしかった。
響也は法介へと顔を寄せ、軽く口付けを落とすように、彼の涙を自分の唇で掬い取る。
「ありがとう」
そうして改めて湧き上がってきたその気持ちを、もう一度伝える。
すると法介がようやく笑ってくれた―――大好きなその笑顔を前に、響也も自然と笑った。
2007.07.27 up