決別の
とき
*前編*


注:センセーが壊れ気味ですので、
センセーファンの方はご注意を!
そして、今回は響也の出番なしです…

ポストに入れられていた一通の手紙。
宛名は流麗な文字で「王泥喜法介様」と書かれている。
それを見た途端、法介の鼓動がドクンと鳴った。
その文字に見覚えがあったからだ。

震える手で、法介は封書の裏を捲る。
そしてそこに想像通りの文字が綴られているのを確認して、法介は強く唇を噛んだ。

差出人の名は―――「牙琉霧人」だった。





「久しぶりですね、オドロキくん」
そう言って、椅子に腰掛けて優雅に微笑む姿は、今いるこの空間が何処であるかを法介に忘れさせようとする。
ここが刑務所の独房だということを。
罪を犯し収監されている人間とは、普通ならばガラス越しに面談する。
しかし法介が名を名乗り、霧人に面会したいと申し出ると、通されたのは彼が過ごすこの独房だった。
「色々と便宜を図ってくれる人間がいるんですよ」
と、法介の考えを先読みするように、霧人はなんでもないことのように答える。

その言葉を証明するように、鉄格子にさえ目をやらなければ、独房の中は書棚やテーブルが設置され、普通の居住空間と変わらなく見えた。
常識ではとても考えられない。
だが……それをやってのけるのが、牙琉霧人という男なのだ。

「私からの手紙を読んで、来てくれたのかな?」
法介へと問いかける霧人の口調は、あくまでも穏やかだ。
七年前の事件の真相が解明されることとなったあの法廷での乱れようが、嘘のようだ。
法介がよく知る穏やかで気品溢れる男がそこに居る。
ただ、格子をつけられた小さな窓から差し込む光が霧人の眼鏡に反射して、その向こうの瞳は見えなかった。

「えぇ、そうです……牙琉……さん……」
法介は霧人の前に立ったまま、躊躇いがちに口を開く。
すると霧人はおやおやといった様子で、肩を竦めた。
「もう先生とは呼んでくれないんですね、オドロキくん。
きみがそんな薄情な人間だったとは、悲しい限りだ」
とは言うものの、本気で悲しんでいる様子は微塵もない。
法介の目から見ても、それは演技掛かっていた。
そんな霧人を前にして、法介は送られてきた彼からの手紙を思い起こす。

手紙にあったのはただ一筆。
―――お茶でも如何ですか?
と。


数日間悩んだ。
霧人がそんな手紙を送ってきた意図が、法介には分からなかったからだ。
ただ酷く悪い予感はした。
しかし結局、法介はこうして霧人の元へやって来た。
自分の中に未だ深く存在する「弁護士・牙琉霧人」と決別する為に―――。

「成歩堂の手助けがあったとはいえ、まさかきみにこんなところに放り込まれることになるとは、流石の私も思いませんでしたよ。
飼い犬に手を噛まれるとは、まさにこういうことをいうのでしょうね」
そんな辛辣な台詞とはそぐわないほどに、霧人の声は変わらず静かだ。
ただそれが返って恐ろしく感じられるのは、法介の気のせいだろうか。

「まぁ、いいでしょう。
美味しいお茶をご馳走しましょう。
珍しい茶葉が手に入ったので、きみにああして手紙を出したのだからね。
ちょうどきみが来る頃を見計らって、準備しておいたんですよ」
言って、霧人はテーブルの上に既に用意されていたティーポットから、二つのカップに紅茶を注ぐ。
「さぁ……どうぞ」
その一方を霧人は掌を向け、指し示す。
だが法介は動かない。
じっと探るように霧人の顔を見つめている。

するとくすりと霧人は笑みを零す。
「心配いりませんよ。
アトロキニーネは入っていませんから」
そんなことを法介は危惧している訳ではなかった。
彼が自分にお茶を振舞う為だけに手紙を寄越したとは、とても考えられず、彼の表情からその真意を読み取ろうとしていたのだ。

世間にその名を知られ、次々と無罪を勝ち取る霧人の姿は、法介の憧れだった。
まさか牙琉法律事務所に入ることが出来るなど思いもよらなかった。
そればかりか、彼は新人である法介にも、親切に多くのことを教えてくれた。
法介にとって、霧人はまさに師というべき存在だった。
いつの日か彼のような弁護士になりたい―――それが法介の夢だったのだ。

しかし―――霧人は大きな罪を犯した。
法介が立った初法廷で、明るみになった彼の殺人という罪は、やがて更に大きな悪意の上に為されたものだと暴かれた。
それは七年前のとある事件の真相と複雑に絡み合っていたのだ。
そして、その中心に居たのがこの霧人だった。

霧人の行為によって、人生を狂わされた人々が沢山いた。
命を落とした者も、その危機に瀕した者もいる。
己の野心と名誉の為に人を欺き、保身と矜持の為に人を傷付けた。

その真相に辿り着いた法介自身も、その事実に大きな衝撃を受けた。
己の考えが間違っているのではと考えたことも、一度や二度ではない。
むしろ誤りであって欲しいとすら思った。
ずっと尊敬してきた人なのだ。
目標としてきた弁護士だったのだ。
周囲には平気な振りをしていても、そう簡単に割り切ることなど、法介には出来なかった。
彼の存在は、抜けない棘となり法介に突き刺さったままだ。

しかしそれを抜き去る為に、ここに来た。
いつまでも囚われている訳にはいかない。
前へ進まなければ―――そう決意して。

「俺は貴方のことを尊敬していました……いつか貴方のような弁護士になりたいと。
冤罪に苦しむ人たちの為に、力を尽くして弁護していたのは偽りだったのですか?
正義感に溢れ、眩しいくらいに輝いていた貴方は偽者だったのですか?」
法介は拳を握り締め、縋る様な想いで目の前の霧人を見遣る。

それに対し霧人は、くくく……っと喉の奥で嗤う。
口端がつり上がり、ぞくりとするような冷酷な笑みが形作られた。
「相変わらず愚かで、甘い男ですね、オドロキくん。
偽者もなにも……私は別段善人を演じてきたつもりはありませんよ。
私はいつも私の為だけに法廷に立っていた。
他の誰のためでも―――被告人の無実を信じ、弁護していたことなど一度もない。
真実など無意味。
無罪という判決さえ下されれば、それ以上のことなど必要はありません。
たとえ被告が有罪であると知っていてもね。
無罪判決を得ることが、弁護士としての私の矜持や野心を満たしてくれる……ただそれだけのこと。
ゲームみたいなものだ」

「そ……んな……」
法介は呆然と呟くことしかできなかった。
弁護士は被告人の無罪を信じて闘い、真実を詳らかにすること。
それこそが弁護士たる自分の務めだと思ってきた。
その上で真実が被告人の罪を指し示すのだとすれば、それは受け入れるべきことだと。
それを捻じ曲げてまで無罪を勝ち取ろうとは、法介には到底思えなかった。
まして、人の人生がかかった裁判をゲームだなどと考えたことはない。

「きみの考えていることなど、手を取る様に分かりますよ。
だが賭けるものが大きいほど、ゲームは楽しいし興奮するではないですか。
そうじゃないかな、オドロキくん?」
霧人は酷薄に微笑んだまま、こともなげに言い放つ。

怒りよりも、大きな哀しみが押し寄せてくる。
信じていた何もかもが足元から崩れ落ちていくようだ。
こんな悪魔のような人が、弁護士だったなんて……。
そしてそんな人を信じ、目標にしていた愚かな自分に腹が立つ。

呆気に取られ立ちすくむ法介を前にして、霧人はゆらりと椅子から立ち上がった。
それにより、光の反射で見えなかった霧人の眼鏡の奥の瞳が露になる。
こちらに向けられるその眼差しに、法介は思わず身を震わせた。
冷たいなどというものは通り越して、暗く凍てついた恐ろしいまでの底なしの闇がその瞳には宿っていた。

反射的に後退する法介に、ゆっくりとした足取りで霧人は近付いてくる。
「オドロキくん、私はね……きみごときに負けた自分を認める訳にはいかないんです。
だからきみをこの手で消す。
毒なんて使いません……私自らの手できみを葬ってあげましょう。
そうして全て無に帰す」

(狂っている……!)
最早そうとしか思えない。
法介の存在を己の手でもって消し去るために、霧人は法介を呼び寄せたのだ。
嫌な予感は確かにあった。
けれどまさかここまでの手段に霧人が出ると、法介は思わなかった。
否、思いたくなかったのだ。

しかし、法介はそんな霧人にじりじりと追い詰められていく。
情けないことに恐怖に身体が強張って、気圧されるようにあとじさるのが精一杯だったのだ。
周囲には看守の姿も他の人の気配もない。
それもまた霧人の手回しなのだろう。

「!?」
背が壁にあたる感触に、法介は目を見開いた。
対照的に、霧人は先程までとは打って変わってにっこりと微笑んだ。
まるで昔のように。
とても優しげに。

伸びてくる霧人の両手が、法介の首に巻きつけられる。
冷やりとしたその指の感触。
そしてそこに徐々に力が込められていくのを、法介は動けないままに、はっきりと感じていた―――。



2007.07.07 up