キミの
名は

深夜近く、ようやく仕事を終えた響也は、タクシーで自宅へと向かっていた。
いつもならばバイクなのだが、生憎外は土砂降りの雨だった。
そんな時間と天候のせいか、人の姿はほとんどない。
タクシーが人情公園の前を通りかかった時、窓の外を眺める響也の視界の端に、気になるものが映ったように思えた。
「すまないけど、止めてくれるかな」
響也は運転手に声を掛け、車を停車させる。
そうして持っていた傘を差し、響也は公園の中へと入っていった。

響也にとってこの公園は思い出の場所だ。
彼と―――王泥喜法介と初めて出会った……。

公園を入ってすぐの電燈の下に、しゃがみ込む人影があった。
そこに居たのは、その法介だった。
彼は傘は手にしているのにずぶ濡れだ。
それは傘を自分ではなく、目の前の何かに差しかけていたから……。
そうしてじっと前を見つめている。

「おデコくん」
その傍に近付いた響也が声を掛ける。
気配に気付いていなかったのか、法介はびくりと肩を揺らした。
驚いた様子で目を見開き、しゃがみ込んだまま、法介は隣に立つ響也を見上げた。
雨に濡れたせいで、いつもはぴんと立った前髪も、サイドに固められた横の髪も、すとんと落ちてしまっている。
そうなると元々童顔の法介が、さらに幼く見えた。
「牙琉検事……どうしたんですか?こんな所で……」
「それはこっちの台詞だよ。
帰る途中に偶然キミの姿が見えた気がしたから、来てみたんだけど―――キミの方こそこんな雨の中、ずぶ濡れで何をしているんだい?」
響也は自分の傘を法介の上へと翳し、訊ねる。

すると法介は再び目の前へと視線を移した。
先程までは法介の傘に遮られてそれが何かは分からなかったのだが、彼の隣からならその正体が知れた。
それは小さな段ボール箱に入れられた子犬だった。
白い、雑種らしき犬だ。
人懐っこそうに尻尾を振りながら、ダンボールの淵に手を掛け、真っ黒で大きな瞳で法介を見つめている。
状況から察するに、おそらく捨て犬だろう。

「丁度雨が降り始めた頃、オレも帰ろうと思ってこの公園を通ったら、コイツがいるのに気付いたんですけど、オレの家は動物禁止なんで連れて帰れなくて……」
法介は困ったように微笑んだ。
それだけしか法介は口にしなかったが、響也には全て分かってしまう。
飼うことはできないから、無責任に手を出すことは憚られた。
けれど彼は降り出した雨の中、子犬をそのままにしておくことが出来ず、こうして傘を差してかけて子犬がせめて雨に濡れないようにしていたのだろう。
確か雨は夕方から降り始めたはずだ。
それからずっと法介は、自分が濡れるのも構わずにここうして留まっていたということか。

響也の口元に、自然と優しい笑みが浮かぶ。
「おデコくん、そのコを連れて僕のマンションにおいでよ。
僕のところは動物オッケーだからさ」
「でも……」
「あぁ、分かってる。
僕も一人暮らしで不規則な生活をしているから、ザンネンだけどそのコを飼ってあげられない。
けど知り合いに貰ってもらえないか聞いてみることくらいは出来るよ。
一応カオは広いんでね。
その間くらいなら面倒を見られると思うし」
響也が言うと、法介はようやく安堵した息を吐く。
響也が屈んで子犬を抱き上げると、子犬は嬉しそうに「きゃんきゃん」と子犬独特の高い鳴き声をあげる。
法介はその姿に笑みを漏らし、立ち上がったのだった。





「ほらおデコくん、早くシャワーを浴びてきなよ」
マンションに到着すると、響也は開口一番そう法介を促した。
「いくらナントカは風邪引かないっていったって、いつまでも濡れたままだとおデコくんといえども、寒いだろう?」
そう茶化すことも忘れない。
どうも法介を前にすると、素直に風邪を引いたら大変だからと心配する気持ちを口に出せないのだ。
「喧嘩売ってるんですか!」
案の定、法介は眦を吊り上げるが、彼の方も響也のそんな態度には慣れたもので、ぶつぶつ言いながらもバスルームへと消えていった。

その背を見送りながら、胸に抱いていた子犬を下ろしてやる。
子犬は初めての場所に興味津々なのか、きょろきょろと辺りを見回しながら、匂いを嗅いでいる。

その物珍しそうな様子が、法介が初めてここに足を踏み入れた時の事を、響也に思い起こさせる。
そんな法介も、今ではすっかりこの場所に慣れてしまった様子だ。
しかし法介がここで自宅のように寛いでくれるのは、響也としても嬉しかったのだ。
それだけ彼との距離が縮まったのだと改めて感じられて。
法介と付き合いだすまでは、自宅だというのにここに帰ってこない日も多かった。
曲作りの為にスタジオに籠りきったり、馴染みのバーで酒を飲み明かしたり、そして時には女性と一夜を共にしたり―――と、自宅に戻ることの方が珍しかったかもしれない。
寝る場所という認識くらいの、そんなあまり愛着のないそんな住居だった。

それが今やいくら遅くなろうとも、毎日響也は自宅に帰ることにしていた。
互いの仕事の都合上、毎日法介と会える訳でもなかったし、彼が頻繁にここを訪れてくるということでもない。
それでも響也にとってここは、今では大切な場所になったのだ。
まだそれほど長くはないが、法介と過ごした時間と思い出が詰まった場所。
そしてこれからもそれらを紡いでいく場所となるのだから。

例え会えなくても、ここにいると法介が傍にいるように感じる。
彼がここに滞在していた時の残滓がそこにあるような気がする。
(相当おデコくんにイカれちゃってるな、僕も)
思わず苦笑して、響也は心の内でごちる。

けれど嫌な気分ではない。
寧ろそこまで深く想えるような相手と出会うことができて、倖せだと思う。
これまで誰かに対して、あまり執着したことなどなかった。
大抵の人間とはそつなく付き合えるし、別段努力しなくても人は向こうから寄ってきた。
その時々を楽しく過ごせれば、それで満足だったから、その後もずっと関係を続けたいとは思わなかった。
来るもの拒まず、去るもの追わずという正にそんな状態である。

そのスタンスは今でも変わっていない。
但しそこに例外が出来たのだ―――王泥喜法介という特別な存在が。
彼の傍にいたいと思うし、自分の傍にいて欲しいと思う。
手放すことなど考えられない。

部屋を探索するのに飽きたのか、子犬が響也の足元に纏わりついてくる。
それを響也はひょいと抱き上げて、子犬を自分の目線の位置に合わせる。
垂れた耳と、くりくりとして溌剌と輝く黒い瞳は、まるでとある誰かを連想させた。
くすりと笑って、響也は目の前の子犬に話しかける。
「似たモノ同士だから呼び合っちゃったのかな。
うん?キミはオスなんだね……余程同性を惹きつけちゃうのかなぁ、おデコくんは」
冗談めかして言った時、
「……なにか言いましたか?」
後ろから、剣呑な声が投げかけられた。

振り返ると、シャワーを浴び、スウェットの上下に着替えた法介が立っていた。
「聞こえたのかい?」
悪びれもせずに響也が問うと、法介は眉を顰めて首を振る。
「その割には怒ってるみたいだけど?」
「どうせアナタのことだから、ロクでもないことを言ってたんだろうという予測です」
「さぁ……どうだろうね、黙秘するよ。
僕とキミの秘密にしよう」
響也は子犬に向かって、面白そうに笑いかけた。

逆に法介はむぅっと口を尖らせながら、響也の手から子犬を取り上げる。
「こんなジャラジャラした人の言うことなんて聞くと、立派なオトナになれないぞ」
などと、法介も子犬に喋りかける。
「ヒドい言われようだよね……傷つくよ」
響也は深く溜息を吐いて、肩を落とす。

だがすぐに二人は互いに顔を見合わせて、ぷっと同時に吹き出した。
なんだか子犬に向かって真剣に語りかけている自分達が可笑しかったのだ。
法介は本気で不機嫌な訳でもないし、響也も本当に落ち込んでいる訳でもない。
要するに、じゃれあっているようなものなのだ。
言葉は分からずとも、二人の楽しそうな雰囲気を察したのか、子犬も尻尾を振って嬉しそうに吼えた。

と、法介は壁に掛けられた時計を見て、「あっ」と声を上げた。
もう深夜二時を回ろうとしている。
「すみません、牙琉検事……」
「分かってるよ。
明日早いんだろう?
このコのことは気にせずに、もう帰って休んだ方がいい。
僕がちゃんと面倒を見ておくし、飼い主の方も探しておくからさ」

法介が明日から仕事で二、三日出張に出ることは聞いていた。
知り合いの弁護士から、担当している審理の補佐を頼まれたのだという。
元々補佐につくはずだった人間が、体調を崩して入院したらしく、急遽その代理ということで。

「僕は今日でちょうど仕事が一段落したし、安心して行っておいで。
遅いし送っていこうか?」
すると法介はくすぐったそうに微笑んだ。
「女の子じゃあるまいし、大丈夫ですよ。
すみませんが、コイツのことよろしくお願いします」
ぺこりと法介は頭を下げて、子犬を再び響也へと手渡す。
響也の腕の中に納まった子犬の頭を法介は撫でた。
「ちゃんといい子にしてるんだぞ。
……あっ、そうだ、牙琉検事、こいつの名前付けてやって下さいね。
オレそういうのどうも苦手で」
「いいよ、考えておこう」
その依頼に響也が快く頷くと、法介は安心したように帰って行った。

法介を玄関先まで見送って、響也は腕の中の子犬を見る。
はしゃぎ疲れたのか、子犬は眠ってしまっている。

「本当は、キミの名前はとっくに決まっているんだ。
よろしくね―――」
子犬の耳元に響也は静かにその名を囁きかけた。





三日後、出張を終えた法介が、響也のマンションにやって来た。
自宅に居ることは法介には前もってメールしておいた。

響也が買い与えた玩具のボールを追いかけて、子犬は部屋の中を動き回っていた。
元気そうな子犬の様子を、ソファに腰掛けた法介は目を細めて見つめる。
「お疲れ様」
響也はコーヒーカップを、そんな法介の前に置く。
響也の淹れてくれるコーヒーは、どこの店のものよりも美味しいと法介は思っている。
遠慮なくそれを口に運び、法介はほっと息を吐き出した。
帰ってきたんだなと実感して。

「飼い主、見つかったよ」
法介が一番気にしているであろうことを、響也はまず伝える。
すると案の定、法介の顔がぱっと輝いた。
「本当ですか!?」
「うん、動物好きな人だし、以前も犬を飼ってたそうだから、大事にしてもらえると思うよ」
「ありがとうございます、安心しました」
法介は響也に礼を述べ、子犬の方を見遣る。
「良かったな、いい人に貰ってもらえるみたいだぞ!
えーと、牙琉検事、それでこいつの名前考えてもらえましたか?」
「おデコ」
「は?」
「だからおデコだよ、そのコの名前」
響也は至極真面目な顔つきで、さらりと言う。

みるみるうちに、法介の笑顔が一変して、険悪なものになる。
「フザけないでくださいよ……」
しかし響也はけろりとしたものだ。
「別にフザけてなんていないよ。
おデコくんが見つけたコだし、普通の犬に比べるとヒタイが広いように思うしさ。
そのあたりの毛艶もテカテカしてるように見えるしね。
ぴったりだよ」
響也は自信満々にそう言い切る。

改めて法介は子犬を観察するが、至って普通だと思う。
響也の言うように額が特別広くも見えない。
額部分の毛並みだって、他の部分となにも変わらない。

「そのコの飼い主になる人も気に入ってくれたよ」
法介が口を開く前に、響也は追い討ちをかける。
飼い主がそういっているのなら、法介としては最早口の出しようがない。
ぐっと言葉に詰まる法介を、響也は面白そうに見つめている。

もっと早くに気付くべきだったのだ。
響也に名付けてもらうなどということが、いかに愚行であるかということを。
よくよく考えてみれば分かることだった。
彼がガリューウエーブとして活動している時に出した曲のタイトルやら詞を思い返せば……。
それらがいずれもミリオンヒットになったなどと、法介は未だに信じられないくらいだ。
だが、飼い主となる人も喜んでいるとなると、自分の感覚こそがおかしいのだろうかとも思えてくる。

はぁーっと深い溜息を落とし、法介は脱力するしかなかった。
「名前を呼んだら、ちゃんとあのコも反応するんだよ。
あのコも気に入ってるってことだと思うけど」
「あーはいはい。
もう分かりましたよ。
ステキな名前をありがとうございます」
投げやりに法介は言いつつも、もう諦めをつけて、子犬の名を呼んでみる。
「お……デコ」
いつも自分が響也に「おデコくん」と呼ばれている為に、なんだか照れくさい。
しかし子犬はボールにじゃれつくのに必死で、法介の声に反応しようともしない。
再度呼んでみるが、結果は同じだった。

「あはは、おデコくん、もう忘れられちゃったんじゃないのかい?」
響也に茶化され、法介は彼を睨み付ける。
意地になって呼んでみるが、子犬は法介の呼びかけに応える素振りはみせなかった。
とうとう諦めた法介は、ソファから立ち上がり、子犬を抱き上げた。
すると子犬は嬉しそうに尻尾を振って、法介の頬を舐めた。
「なんだ……歓迎してくれてるんじゃないか。
なのになんでオレが呼んでも、反応しないんだよ、オマエ」
法介はぶつぶつと恨みがましそうに呟いた。
だが見つめてくるくりくりとした瞳が可愛くて、法介は腕の中に子犬を抱き、その頭を撫でてやる。

「おデコくん、そのコばかりに構ってないで、そろそろ僕の相手をしてくれてもいいんじゃないかな?
ここのところずっとオアズケだったしさ」
しばらくその様子を眺めていた響也が、不意に背後から法介の身体を抱きしめ、耳元に甘い声で囁きかける。
そのまま耳朶を甘噛みされて、法介の身体はびくりと戦慄いた。
それだけで腰が砕けてしまいそうになる。
「子……犬相手に妬いてるん……ですか?」
擦れながらも意地悪く問うた法介に、響也は躊躇うこともなく答える。
「悪いかい?
アイシテル人に自分だけを見て欲しいって思うことは、ワガママなのかな?
僕はキミのそのキレイな瞳が、ずっと僕だけを見つめていてくれればイイのにっていつも思ってる」

法介としては、子犬に嫉妬してると指摘された響也が、意地になって反論するなり、恥じ入るなりするのをからかってやるつもりだったのだ。
いつもいつも自分だけがからかわれているものだから、たまにはこちらから攻撃に出た。
しかしそれは結局カウンターとなって、法介自身に返ってきてしまった。
よくもそんな恥ずかしい台詞がすらすらと出てくるものだと思いながらも、顔が火照る。
結局ドギマギさせられたのは、いつも通り法介の方だった。

「シ……ャワー浴びてきますからっ!」
法介は響也の腕から抜け出し、子犬を床に下ろすと、振り返りもせず一目散にバスルームへ向かっていった。
くすくすと響也は笑い声を漏らす。
こちらを向かなくとも、法介が今どんな表情でいるか、易々と想像がついたからだ。

そんな法介の後を遅れてついていこうとした子犬を響也は呼び止める。
ただし、バスルームに消えた法介には聞こえぬ声音で。
「ホースケ」
すると、子犬はぴくりと耳を動かして、反応を示す。
「ホースケ、おいで」
もう一度呼ぶと、子犬はくるりと身体を反転させて、響也の元へトテトテとやって来た。

響也は子犬を抱えて、今度は悪戯めいた微笑を浮かべるのだった―――。



2007.06.09 up