融け
ゆきて
注:響也×法介前提ですが、
今回は法介の出番なしです…
成歩堂なんでも事務所―――粗末なプレートが掲げられたその扉を、響也は押し開いた。
用途不明の訳の分からない数々のものが、狭い室内を占拠している。
足の踏み場もないというのは、決して誇張ではないように響也は思う。
その真ん中に設えられたソファに、だらしなく寝そべったニット帽の男が目を閉じて眠っていた。
無精ひげを生やし、よれよれのパーカーを身に付け、涎を垂らして高鼾。
七年前、法廷で対峙した男の面影はそこにはない。
あの時の男は青いスーツに身を包み、無敗の弁護士として名を馳せていた。
その彼から弁護士バッジを奪うことになったのは、響也の告発によってだった。
それが巧妙に仕組まれた罠だと判明したのは、七年の時を経てからだ。
「男の寝顔なんて正直見られたもんじゃないし、見たくもないね。
狸寝入りとは頂けないな……成歩堂龍一」
言って、響也はずかずかと部屋を横切り、男の―――成歩堂龍一の向かいに腰を降ろした。
するとふっと口元を歪めて、成歩堂が目を開ける。
そうしてのっそりとした様子で、ソファに身を起こした。
「狸寝入りとは心外だね。
君が扉を開けるまでは、本当に眠っていたんだよ。
ノックもせずに入ってくるものだから、てっきりドロボウかと思ったんだ。
で、こう隙を見せておいて、捕まえてやろうかと思ってさ」
あっはっはっとわざとらしく、成歩堂は笑い飛ばす。
どこをどう見渡しても、価値のありそうなものはない。
あるのはガラクタの山ばかりだ。
ドロボウとて扉を開けた瞬間に、くるりと回れ右して立ち去るだろう。
どこまでが本気で、どこからが冗談なのか、飄々としたその表情からは判断がつかない。
「まぁ、でもさっきの君の発言には異議ありだな」
成歩堂の言葉に、響也は僅かに首を傾げた。
異議もなにもまだほんの二言三言しか話してはいない。
響也の疑問を読み取ったかのように、成歩堂は続ける。
「男の寝顔……云々ってやつだよ」
「別におかしなことは言っていない筈だよ、世間一般的に言っても」
しかし成歩堂はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる。
「時に、牙琉検事。
うちの事務所のオドロキくんは今日はどうしているのかな?」
と、全く今までの会話と異なる脈絡のない問いを投げ掛ける。
だがそれに、ぴくりと響也の眉が僅かに動いた。
「このぼくが、今日おデコくんがどうしてるかなんて知っている訳ないと思うけど。
可笑しなことを聞くよね」
それ以外にはどんな変化も見せず、響也は平然といつも通りの口調で返答する。
一見全く関係ないと思われる成歩堂の質問は、実のところ大いに繋がっている。
響也はもちろんそれを理解していたが、正直に答えてやるような義理はない。
人をくったような笑みが腹立たしい限りだ。
「ふうん……ま、いいや。
ただあんまり無茶はしないで、手加減してあげてくれよ。
肝心の法廷の時に、弁護士が足腰立たないなんてみっともないからね。
オドロキ君には頑張って貰わないと―――うちの生活費と家賃が掛かってるもんでね」
そんなことを成歩堂は笑顔のまま、響也にさらりと言ってのける。
先程の問いかけから薄々気付いていたが、どうやらこの目の前の男は自分達の関係を知っているらしいと響也は察する。
あの法介がまさか話すとは思えないし、他の人間から指摘されたこともない。
とするならば、それはこの男の鋭い洞察力というものなのだろうか。
今の外見や雰囲気からはとても頷けはしないが、そういう風に装っているだけで弁護士成歩堂龍一は未だに健在なのか……。
やはり喰えない男だ。
響也は別段、誰に二人の関係が知られようが構いはしないと思っていた。
だからといってそれを吹聴して回るような趣味もなかったが。
しかし成歩堂に自分との関係がバレていると知れば、法介はきっと目を白黒させて、羞恥でパニックになるだろう。
その様子が、響也にはありありと想像できる。
知らぬが仏―――今は響也の部屋のベッドの中で、未だ疲れ果ててぐったりと眠っている法介には決して言うまい……否、言えない。
「相変わらず、ムカつく男だね、アンタは」
小さな舌打ちと共に、響也が苛立たしげに毒づく。
成歩堂の人の悪い笑みは崩れない。
「褒め言葉と受け取っておくよ。
……で、そのムカつく男に何の用なのかな?
カガク的に分析しなくても、君がぼくのことを快く思っていないことくらい知っているつもりだけど」
その成歩堂の言葉に、響也の顔がすっと真剣味を帯びた。
響也は成歩堂のことを、端的に言えば嫌っていたし、軽蔑していた。
それは無論、七年前のあの事件が原因で。
法曹界に身を置く人間として、この男は決してしてはならぬことをしてしまったからだ。
その罪で弁護士バッジを奪われた。
だが―――真実は違った。
全ては仕組まれたことだった―――牙琉霧人によって。
真実が法介の手により明るみになった今となっては、成歩堂のことを以前のようには当然ながら思えなくなっていた。
全く身に覚えのないあの件で、法曹界を追われてから七年……決して短くはないその時を、成歩堂はどんな気持ちで過ごしてきたのだろうか。
自身の潔白は自分が一番良く分かっているとは言っても、世間の風当たりは強かったことだろう。
響也が告発したあの時、成歩堂は反論もせず、ただ静かな眼差しであったことを思い出す。
今、こうして向かい合って座っている男は、にやけた笑みを浮かべながらも、その瞳はあの日と全く同じだった。
(いっそ、ぼくを罵るなり、殴るなりしてくれれば、分かり易いのに……)
この男にとって自分は、人生を奪ったといっても過言ではない人間だろうにと。
成歩堂龍一という存在は、響也にとっての抜けない棘だった。
法介にとってのそれが牙琉霧人であるように。
それを抜き去る為に、響也は今日ここにやって来たのだ。
成歩堂に対して謝罪の気持ちを伝える為に。
そうしたとてそれが成歩堂の救いになどならないことは承知している。
ただ自分の心の蟠りをすっきりとさせたいが為の、独りよがりの行為にしか過ぎないかもしれないことも。
それでもあの時の自分が、霧人の言葉を鵜呑みにしなければ、あの事件はもっと違う展開を見せていたかもしれない。
全ては霧人の示唆した通りになった。
あの時点で響也には拭い去れない違和感が、確かにあったのだ。
それをもっと追求していたなら―――。
そう思うと、真実を知った今、成歩堂と向き合わずにこの先を過ごすことなど響也には出来なかった。
「今日はアンタに……」
響也が言いかけた所で、成歩堂は「あっ!」と声を上げた。
「まだ何のおもてなしもしてなかった……気がつかなくてすまなかったね。
何か飲むかい?」
響也の気概を殺ぐようにのんびりとした口調で問うて、成歩堂はソファから立ち上がった。
「ま、飲むものといっても、水くらいしかないけど。
水道水でもいいかな?」
「いいわけないだろ……」
ぼそりと呟いて、響也はがっくりと肩を落とす。
如何ともペースの掴めぬ男だ。
「そんなことはどうでも良いからさ……ぼくの話を―――」
「聞かないよ」
成歩堂は静かに、再び口を開いた響也を遮った。
珍しく成歩堂の顔から笑みが消えていた。
響也は僅かに目を見開く。
「勘違いしないで欲しいけど、ぼくは君に対して別に憎んでも恨んでもいない。
君はあの時、為すべきことをしただけだ。
怪しいと思いながらもあの証拠を提出したのは、ぼく自身の責任であって、君のせいではない。
責めるべきはぼく自身の浅慮だ。
もしもあの時ああしていればと後悔した所で、時間は決して戻らない。
あの事件で失ったものは確かに大きかった―――けれどそれによって得たものも同じくらいに大きかったよ。
ぼくの人生は君や周りが思っているほど、そうサイテーでもないのさ」
そんな風に言って、成歩堂はまた笑みを浮かべる。
けれどそれは先程までの人をくったようなそれではなく、響也が初めて見るとても穏やかで優しい微笑だった。
無理をしている訳でも、強がっている訳でもない。
それは成歩堂の真実の言葉なのだと、響也にもはっきりと伝わってくる。
長年心に蓄積されていた澱が、ようやく流れていくようだ。
「ありがとう」
自然とそんな感謝の気持ちが響也の口から零れ落ちた。
成歩堂は微かに頷いたようだった。
「その言葉なら受け取っておくよ。
―――そうだな、ならぼくも君に礼を言っておくよ。
ありがとう」
「?」
響也には、成歩堂に罵られこそすれ、感謝されるような覚えはなかった。
「オドロキ君のことだよ。
君は彼を色々な面で支えてくれているだろう?
ぼくにとっても彼はみぬき同様大切な……うん、所属タレントだからね、頑張って稼いで貰わないと困るし」
大切なといった後に、僅かな逡巡があったことを、響也は見逃さなかった。
この男も大概素直じゃないというか、ひねくれているというか……決して簡単に本音は見せない。
響也が口元を緩めると、成歩堂はしまったというように一瞬眉根を寄せ、俯いた。
「ぼくが知るオドロキ君はいつも元気で明るくて、おっちょこちょいで、むやみやたらに声がデカい。
けれどそれが彼の全てという訳じゃないだろう。
人間誰しも笑ってばかりじゃいられないしね……。
君にだけはありのままの自分を見せれるんじゃないかな。
そんな彼をこれからも見守ってやって欲しいし、支えてあげてよ。
検事と弁護士っていうお互いの立場で色々大変なこともあるだろうけど、ま、それはそれで楽しいもんさ。
同じような頑張りやさんをぼくは知っているけど、その子を守るだけでぼくは精一杯なんだ。
二人も受け止められる程、ぼくは器用な人間じゃないんでね」
響也も成歩堂に負けず劣らず意地っ張りだと自覚しているが、それについて恍けるつもりも、否定するつもりもなかった。
彼の笑う顔や突っかかってくる顔、法廷で見せる厳しい顔……そして響也の前で、時折ひっそりと見せる―――寂しそうで辛そうな顔、泣き顔……それら全てが愛しく思う。
何事にも何処か醒めきっていた自分が、誰かをこんなにも心の底から守りたいと思えたのは、初めてのことだ。
だから、成歩堂の言葉に、この時ばかりは響也も素直に頷いた。
「……まだまだ彼には乗り越えなければならない壁があるしね。
まずは牙琉霧人……か」
顔を伏せたまま、成歩堂はぽつりと呟く。
それが耳に届いて、響也はすっと目を細める。
成歩堂もどうやら気付いているらしい。
法介の抜けない棘を。
「気持ちの区切りというのかな……そういうものは自分自身でなんとかするしかないからね。
ああ見えても聡い彼のことだ……分かっていると思うけど。
しかし、可笑しな話だよね。
弟である君の方が、もうすっかりアイツに対する気持ちの整理がついているように見える」
成歩堂はそこでようやく顔を上げた。
そこにあったのは、いつも通りの飄々とした表情だった。
響也は僅かに口端を上げて、笑った。
どこか酷薄さを含んだそれは、響也の兄霧人を彷彿とさせる。
「衝撃がなかったと言えば嘘になる……けど、少しもあの人を疑っていなかったかと言えば、それもまた嘘になるからね。
七年前アンタを告発した時には、釈然としないものがあったけど、今回事件の真相が解き明かされた時はごく自然に納得できた。
それだけだよ―――」
「君らしいね……随分とドライだ。
君にとっては彼だけが特別という訳か。
―――君は牙琉霧人がまだヒヨッコの彼を、自分の弁護士事務所に入れたことをどう思う?」
そう問うた成歩堂に、響也は考える様子も素振りも見せずに即答する。
冷たさを含んだ笑みを敷いたまま。
「それがあの人の優しさとか度量の大きさだと、おデコくんは信じているみたいだけど……ぼくの考えは違うね。
おデコくんは贄だったのさ。
もし御しきれない不測の事態が起こった時、あの人の身代わりとなる為のね。
何も知らない新人の方が、色々と扱いやすいだろうから。
なんとも臆病なあの人らしい」
それを聞いた成歩堂がくっくっくっと低く笑う。
「君も大概容赦のない男だね。
そこまで自分の人間性が信じられていないだなんて、刑務所に居るアイツが知ったらどんな顔をするだろうな」
響也にしてみれば、自分を陥れた男と知りながら、七年間も親友付き合いをしてきた成歩堂の方が余程太い神経の持ち主だと思う。
「まぁでも、ぼくも同感だね」
ニヤリと再び成歩堂はあの独特の笑顔になる。
「なんだか、ぼく達って似てるよね」
そう言うと、途端に響也の顔が引き攣った。
先程までの冷徹な表情はどこへやら、すっかり影を潜めてしまう。
「おぞましいことを言うのは、止めてくれないかな」
心底嫌そうに顔を歪め、響也は己の身体を抱きしめて、大げさに身を震わせた。
そんな響也をするっと無視して、成歩堂は続ける。
「それでもって、オドロキ君は昔のぼくに似ているのかもしれない。
今はこんなだけど、ぼくにだってそれはそれは可愛い新人時代があったものさ」
演技でもなんでもなく、響也は怖気立つ。
響也が嫌がることを分かっていて、この男は言っているに違いない。
そんな響也を見て、
「あっはっはっ!」
と高笑いする成歩堂を尻目に、この男に対する感情は、軽蔑から苦手へとシフトチェンジしただけで、一生友好的な関係は築けまいと響也は確信するのだった。
用途不明の訳の分からない数々のものが、狭い室内を占拠している。
足の踏み場もないというのは、決して誇張ではないように響也は思う。
その真ん中に設えられたソファに、だらしなく寝そべったニット帽の男が目を閉じて眠っていた。
無精ひげを生やし、よれよれのパーカーを身に付け、涎を垂らして高鼾。
七年前、法廷で対峙した男の面影はそこにはない。
あの時の男は青いスーツに身を包み、無敗の弁護士として名を馳せていた。
その彼から弁護士バッジを奪うことになったのは、響也の告発によってだった。
それが巧妙に仕組まれた罠だと判明したのは、七年の時を経てからだ。
「男の寝顔なんて正直見られたもんじゃないし、見たくもないね。
狸寝入りとは頂けないな……成歩堂龍一」
言って、響也はずかずかと部屋を横切り、男の―――成歩堂龍一の向かいに腰を降ろした。
するとふっと口元を歪めて、成歩堂が目を開ける。
そうしてのっそりとした様子で、ソファに身を起こした。
「狸寝入りとは心外だね。
君が扉を開けるまでは、本当に眠っていたんだよ。
ノックもせずに入ってくるものだから、てっきりドロボウかと思ったんだ。
で、こう隙を見せておいて、捕まえてやろうかと思ってさ」
あっはっはっとわざとらしく、成歩堂は笑い飛ばす。
どこをどう見渡しても、価値のありそうなものはない。
あるのはガラクタの山ばかりだ。
ドロボウとて扉を開けた瞬間に、くるりと回れ右して立ち去るだろう。
どこまでが本気で、どこからが冗談なのか、飄々としたその表情からは判断がつかない。
「まぁ、でもさっきの君の発言には異議ありだな」
成歩堂の言葉に、響也は僅かに首を傾げた。
異議もなにもまだほんの二言三言しか話してはいない。
響也の疑問を読み取ったかのように、成歩堂は続ける。
「男の寝顔……云々ってやつだよ」
「別におかしなことは言っていない筈だよ、世間一般的に言っても」
しかし成歩堂はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる。
「時に、牙琉検事。
うちの事務所のオドロキくんは今日はどうしているのかな?」
と、全く今までの会話と異なる脈絡のない問いを投げ掛ける。
だがそれに、ぴくりと響也の眉が僅かに動いた。
「このぼくが、今日おデコくんがどうしてるかなんて知っている訳ないと思うけど。
可笑しなことを聞くよね」
それ以外にはどんな変化も見せず、響也は平然といつも通りの口調で返答する。
一見全く関係ないと思われる成歩堂の質問は、実のところ大いに繋がっている。
響也はもちろんそれを理解していたが、正直に答えてやるような義理はない。
人をくったような笑みが腹立たしい限りだ。
「ふうん……ま、いいや。
ただあんまり無茶はしないで、手加減してあげてくれよ。
肝心の法廷の時に、弁護士が足腰立たないなんてみっともないからね。
オドロキ君には頑張って貰わないと―――うちの生活費と家賃が掛かってるもんでね」
そんなことを成歩堂は笑顔のまま、響也にさらりと言ってのける。
先程の問いかけから薄々気付いていたが、どうやらこの目の前の男は自分達の関係を知っているらしいと響也は察する。
あの法介がまさか話すとは思えないし、他の人間から指摘されたこともない。
とするならば、それはこの男の鋭い洞察力というものなのだろうか。
今の外見や雰囲気からはとても頷けはしないが、そういう風に装っているだけで弁護士成歩堂龍一は未だに健在なのか……。
やはり喰えない男だ。
響也は別段、誰に二人の関係が知られようが構いはしないと思っていた。
だからといってそれを吹聴して回るような趣味もなかったが。
しかし成歩堂に自分との関係がバレていると知れば、法介はきっと目を白黒させて、羞恥でパニックになるだろう。
その様子が、響也にはありありと想像できる。
知らぬが仏―――今は響也の部屋のベッドの中で、未だ疲れ果ててぐったりと眠っている法介には決して言うまい……否、言えない。
「相変わらず、ムカつく男だね、アンタは」
小さな舌打ちと共に、響也が苛立たしげに毒づく。
成歩堂の人の悪い笑みは崩れない。
「褒め言葉と受け取っておくよ。
……で、そのムカつく男に何の用なのかな?
カガク的に分析しなくても、君がぼくのことを快く思っていないことくらい知っているつもりだけど」
その成歩堂の言葉に、響也の顔がすっと真剣味を帯びた。
響也は成歩堂のことを、端的に言えば嫌っていたし、軽蔑していた。
それは無論、七年前のあの事件が原因で。
法曹界に身を置く人間として、この男は決してしてはならぬことをしてしまったからだ。
その罪で弁護士バッジを奪われた。
だが―――真実は違った。
全ては仕組まれたことだった―――牙琉霧人によって。
真実が法介の手により明るみになった今となっては、成歩堂のことを以前のようには当然ながら思えなくなっていた。
全く身に覚えのないあの件で、法曹界を追われてから七年……決して短くはないその時を、成歩堂はどんな気持ちで過ごしてきたのだろうか。
自身の潔白は自分が一番良く分かっているとは言っても、世間の風当たりは強かったことだろう。
響也が告発したあの時、成歩堂は反論もせず、ただ静かな眼差しであったことを思い出す。
今、こうして向かい合って座っている男は、にやけた笑みを浮かべながらも、その瞳はあの日と全く同じだった。
(いっそ、ぼくを罵るなり、殴るなりしてくれれば、分かり易いのに……)
この男にとって自分は、人生を奪ったといっても過言ではない人間だろうにと。
成歩堂龍一という存在は、響也にとっての抜けない棘だった。
法介にとってのそれが牙琉霧人であるように。
それを抜き去る為に、響也は今日ここにやって来たのだ。
成歩堂に対して謝罪の気持ちを伝える為に。
そうしたとてそれが成歩堂の救いになどならないことは承知している。
ただ自分の心の蟠りをすっきりとさせたいが為の、独りよがりの行為にしか過ぎないかもしれないことも。
それでもあの時の自分が、霧人の言葉を鵜呑みにしなければ、あの事件はもっと違う展開を見せていたかもしれない。
全ては霧人の示唆した通りになった。
あの時点で響也には拭い去れない違和感が、確かにあったのだ。
それをもっと追求していたなら―――。
そう思うと、真実を知った今、成歩堂と向き合わずにこの先を過ごすことなど響也には出来なかった。
「今日はアンタに……」
響也が言いかけた所で、成歩堂は「あっ!」と声を上げた。
「まだ何のおもてなしもしてなかった……気がつかなくてすまなかったね。
何か飲むかい?」
響也の気概を殺ぐようにのんびりとした口調で問うて、成歩堂はソファから立ち上がった。
「ま、飲むものといっても、水くらいしかないけど。
水道水でもいいかな?」
「いいわけないだろ……」
ぼそりと呟いて、響也はがっくりと肩を落とす。
如何ともペースの掴めぬ男だ。
「そんなことはどうでも良いからさ……ぼくの話を―――」
「聞かないよ」
成歩堂は静かに、再び口を開いた響也を遮った。
珍しく成歩堂の顔から笑みが消えていた。
響也は僅かに目を見開く。
「勘違いしないで欲しいけど、ぼくは君に対して別に憎んでも恨んでもいない。
君はあの時、為すべきことをしただけだ。
怪しいと思いながらもあの証拠を提出したのは、ぼく自身の責任であって、君のせいではない。
責めるべきはぼく自身の浅慮だ。
もしもあの時ああしていればと後悔した所で、時間は決して戻らない。
あの事件で失ったものは確かに大きかった―――けれどそれによって得たものも同じくらいに大きかったよ。
ぼくの人生は君や周りが思っているほど、そうサイテーでもないのさ」
そんな風に言って、成歩堂はまた笑みを浮かべる。
けれどそれは先程までの人をくったようなそれではなく、響也が初めて見るとても穏やかで優しい微笑だった。
無理をしている訳でも、強がっている訳でもない。
それは成歩堂の真実の言葉なのだと、響也にもはっきりと伝わってくる。
長年心に蓄積されていた澱が、ようやく流れていくようだ。
「ありがとう」
自然とそんな感謝の気持ちが響也の口から零れ落ちた。
成歩堂は微かに頷いたようだった。
「その言葉なら受け取っておくよ。
―――そうだな、ならぼくも君に礼を言っておくよ。
ありがとう」
「?」
響也には、成歩堂に罵られこそすれ、感謝されるような覚えはなかった。
「オドロキ君のことだよ。
君は彼を色々な面で支えてくれているだろう?
ぼくにとっても彼はみぬき同様大切な……うん、所属タレントだからね、頑張って稼いで貰わないと困るし」
大切なといった後に、僅かな逡巡があったことを、響也は見逃さなかった。
この男も大概素直じゃないというか、ひねくれているというか……決して簡単に本音は見せない。
響也が口元を緩めると、成歩堂はしまったというように一瞬眉根を寄せ、俯いた。
「ぼくが知るオドロキ君はいつも元気で明るくて、おっちょこちょいで、むやみやたらに声がデカい。
けれどそれが彼の全てという訳じゃないだろう。
人間誰しも笑ってばかりじゃいられないしね……。
君にだけはありのままの自分を見せれるんじゃないかな。
そんな彼をこれからも見守ってやって欲しいし、支えてあげてよ。
検事と弁護士っていうお互いの立場で色々大変なこともあるだろうけど、ま、それはそれで楽しいもんさ。
同じような頑張りやさんをぼくは知っているけど、その子を守るだけでぼくは精一杯なんだ。
二人も受け止められる程、ぼくは器用な人間じゃないんでね」
響也も成歩堂に負けず劣らず意地っ張りだと自覚しているが、それについて恍けるつもりも、否定するつもりもなかった。
彼の笑う顔や突っかかってくる顔、法廷で見せる厳しい顔……そして響也の前で、時折ひっそりと見せる―――寂しそうで辛そうな顔、泣き顔……それら全てが愛しく思う。
何事にも何処か醒めきっていた自分が、誰かをこんなにも心の底から守りたいと思えたのは、初めてのことだ。
だから、成歩堂の言葉に、この時ばかりは響也も素直に頷いた。
「……まだまだ彼には乗り越えなければならない壁があるしね。
まずは牙琉霧人……か」
顔を伏せたまま、成歩堂はぽつりと呟く。
それが耳に届いて、響也はすっと目を細める。
成歩堂もどうやら気付いているらしい。
法介の抜けない棘を。
「気持ちの区切りというのかな……そういうものは自分自身でなんとかするしかないからね。
ああ見えても聡い彼のことだ……分かっていると思うけど。
しかし、可笑しな話だよね。
弟である君の方が、もうすっかりアイツに対する気持ちの整理がついているように見える」
成歩堂はそこでようやく顔を上げた。
そこにあったのは、いつも通りの飄々とした表情だった。
響也は僅かに口端を上げて、笑った。
どこか酷薄さを含んだそれは、響也の兄霧人を彷彿とさせる。
「衝撃がなかったと言えば嘘になる……けど、少しもあの人を疑っていなかったかと言えば、それもまた嘘になるからね。
七年前アンタを告発した時には、釈然としないものがあったけど、今回事件の真相が解き明かされた時はごく自然に納得できた。
それだけだよ―――」
「君らしいね……随分とドライだ。
君にとっては彼だけが特別という訳か。
―――君は牙琉霧人がまだヒヨッコの彼を、自分の弁護士事務所に入れたことをどう思う?」
そう問うた成歩堂に、響也は考える様子も素振りも見せずに即答する。
冷たさを含んだ笑みを敷いたまま。
「それがあの人の優しさとか度量の大きさだと、おデコくんは信じているみたいだけど……ぼくの考えは違うね。
おデコくんは贄だったのさ。
もし御しきれない不測の事態が起こった時、あの人の身代わりとなる為のね。
何も知らない新人の方が、色々と扱いやすいだろうから。
なんとも臆病なあの人らしい」
それを聞いた成歩堂がくっくっくっと低く笑う。
「君も大概容赦のない男だね。
そこまで自分の人間性が信じられていないだなんて、刑務所に居るアイツが知ったらどんな顔をするだろうな」
響也にしてみれば、自分を陥れた男と知りながら、七年間も親友付き合いをしてきた成歩堂の方が余程太い神経の持ち主だと思う。
「まぁでも、ぼくも同感だね」
ニヤリと再び成歩堂はあの独特の笑顔になる。
「なんだか、ぼく達って似てるよね」
そう言うと、途端に響也の顔が引き攣った。
先程までの冷徹な表情はどこへやら、すっかり影を潜めてしまう。
「おぞましいことを言うのは、止めてくれないかな」
心底嫌そうに顔を歪め、響也は己の身体を抱きしめて、大げさに身を震わせた。
そんな響也をするっと無視して、成歩堂は続ける。
「それでもって、オドロキ君は昔のぼくに似ているのかもしれない。
今はこんなだけど、ぼくにだってそれはそれは可愛い新人時代があったものさ」
演技でもなんでもなく、響也は怖気立つ。
響也が嫌がることを分かっていて、この男は言っているに違いない。
そんな響也を見て、
「あっはっはっ!」
と高笑いする成歩堂を尻目に、この男に対する感情は、軽蔑から苦手へとシフトチェンジしただけで、一生友好的な関係は築けまいと響也は確信するのだった。
2007.05.18 up