幸せ
の
カタチ
朝の柔らかな光が室内に差し込む中、響也はまだ夢現のまま、無意識にベッドの右側を手で探る。
しかし、いくら弄ってみても、手は冷たいシーツの上を滑るのみだ。
ようやくゆっくりと響也は、目を開けた。
ぼんやりと霞む意識の中、先ほど手で探っていた右側へと視線を向ける。
やはりそこには何の存在もない。
キングサイズのベッドなだけに、その空いた空間が殊更寒々しかった。
やがて響也の淡い色合いの瞳に、しっかりとした光が宿り始める。
再度右手を確認して、はぁ……と落胆したような深い溜息を吐くと、響也は上肢を起こした。
身体を覆っていたシーツが上半身から滑り落ち、何も身に纏っていない、褐色の引き締まった体躯が露になる。
響也は別に寝惚けていた訳ではない。
響也が目を閉じる前、右隣には確かに別の人間が共に眠っていたのだ。
昨夜は、その温もりを右腕に抱いて、とても満たされ幸せな気持ちのまま響也は眠りについた。
しかし、今その人影はない。
こんなことは、今回が初めて……という訳でない。
いつも相手は響也が眠っている間に、そっと彼の腕の中から抜け出してしまう。
眠りは浅いタイプの響也だったが、その相手とベッドを共にした日は、自分でも不思議なくらい深い眠りに落ちてしまう。
だから相手が起きる気配に気付かず、響也が目を覚ました時には既にその姿はないのだ。
一緒に朝を迎えたことが、果たして何度あっただろうか。
所謂恋人同士になった当初の数度しか、響也の記憶には残っていない。
目が覚めるまでとは真逆の沈んだ気持ちで、響也はベッドから降りると、床に落ちていたシャツとジーンズを手早く身に付ける。
そのまま寝室を出て、辺りの気配を探るが、やはり自分以外誰もいないようだった。
代わりに、ダイニングテーブルの上にメモ書きが残されていた。
―――予定があるので、帰ります。
響也の見覚えのある文字で書かれていたのは、たったそれだけの文章。
一体今まで何度この文章を読まされたことか。
「おデコくん……確か今日は休みだったはずだろう?」
不機嫌そうに響也は問いかけるが、当然返る答えはない。
「この僕と夜を過ごしながら、僕の目覚めを待たずに帰るなんて、随分じゃないか。
僕と一分一秒でも長く居たいと思う子は沢山いるっていうのに、さっさといなくなるとはどういう了見なんだろうね。
世の女の子達が知ったら、袋叩きにされても文句は言えないよ?」
返答など無くても気にも留めず、響也はぶつぶつと愚痴る。
―――王泥喜法介に向けて。
「この間はすみませんでした」
法介は、響也のマンションにやって来た早々、そういって詫びた。
あれからしばらく互いに仕事が忙しく、裁判所等で顔を会わせることはあったが、こうして二人きりで会うのは久しぶりのことだった。
仕事で顔を会わせる時には、響也はいつも通りの態度を崩そうとはしなかった。
プライベートで思うところはあるとは故、それを公の場で見せるほど響也は子供ではない。
だが今は響也のマンションで二人きりだ。
響也は不機嫌そうな表情を、隠そうともしない。
「その台詞を聞くのも、何度目だろうね。
―――まぁ、いいさ」
響也は大げさに肩をすくめ、諦めたように首を振った。
まだまだ愚痴りたい気持ちはあったが、今までも散々繰り返してきたことだ。
いい加減、自分でも嫌になる。
「明日は休みなのかい?」
折角の久方ぶりの逢瀬なのに、いつまでも終わったことに対して不機嫌でいても仕方が無い。
それまでの表情を和らげ、響也は話題を転換する。
法介の方も謝るということは、悪いとは思っているのだろう。
但し、その謝罪が全く生かされていないことが問題なのだが、響也は今回もひとまず水に流すことにする。
「あぁ、はい」
法介は響也の声が柔らかくなったことに安堵した様子で、頷いた。
大抵法介がこうして響也の自宅にやって来るのは、休日前が多い。
「そう。
僕も明日は休日だよ、久々のね」
それは偶然なのではなく、二人の取り扱う事件が重なることが多いので、休日も同じになる割合は高い。
ただ響也の場合は、法介が三度休みを取るうちに、一度休めれば良い方ではあったのだが。
駆け出し弁護士の法介より、どうしても抱えている案件が多くなってしまうからだ。
響也が休みと聞いて、一瞬法介の瞳が揺らいだ気がした。
だがすぐにいつも通りに戻ってしまう。
「どうかした?」
訊ねる響也に、法介は普段どおりの明るい笑顔を見せる。
「別になんでもありませよ。
それより俺、もうお腹が減って倒れそうなんですけど」
そんな風にあっけらかんと言われてしまえば、気のせいかという気もする。
法介の言葉を証明するように、その時彼の腹が盛大に鳴ったのだった。
それから二人で外に食事に出掛けた。
「そこでみぬきちゃんのマジックが……」
などと、面白おかしく法介は、ここ最近の出来事を語る。
響也も法介もそんな他愛も無い会話を重ねながらも、離れていた時を埋めていく。
この時を響也はとても楽しんでいたし、それは法介も同じように思えた。
自分と過ごすことを嫌がっているような素振りは無い。
なのに―――いつも法介は明くる日、互いに休みにもかかわらず、何の未練も残さずにさっさと消えてしまうのだ。
その後、再び響也のマンションに戻り、酒を飲む。
あまり法介が酒に強くないことを響也は知っていたから、彼が完全に酔ってしまう前にグラスを取り上げる。
そこで法介を抱き寄せると、彼の広い額に軽くキスする。
「抱いてもいいかな?」
囁くように甘い声で響也が訊ねれば、返事の変わりに、法介の腕が響也の背に廻された。
決して響也は自分の情欲だけを優先させることはない。
法介とて気分が乗らない時もあるだろう。
そんな時は決して無理強いはしない。
どうしても法介に掛かる負担の方が大きいのだから。
第一、二人の気持ちが通じ合っていなければ、ただ虚しいだけだと思う。
「一緒にキモチヨクなろうよ、ね?」
そうでなければ意味はない。
二人は立ち上がり、口付けを交わしながら、響也の寝室へと向かう。
真っ赤に顔を染めながらも、響也のキスに必死に応えてくる法介を愛しく思う。
最初の頃はキス一つで、がちがちに固まっていた法介の姿を思い返しながら―――。
ようやく空が白み始めた頃、法介はそっと目を開く。
法介の身体は、響也に包み込むようにしてしっかりと抱きしめられている。
耳元からはドクドクと力強い鼓動が、頭上からは規則正しい寝息が聞こえてくる。
響也の胸元からゆっくりと顔を上げると、ぐっすりと眠っている響也の端正な顔が視界に入る。
目が閉じられていても、ドキリとする顔立ちだ。
世の女性たちが夢中になるのも、男の自分から見ても納得できる。
まさかその彼と、こんな関係になるなんて、出遭った頃は微塵も想像していなかったのだが……。
法介はいつものように、響也を起こさぬように細心の注意を払いながら、そーっと彼の腕の中から抜け出す。
ベッドから降りようとした、その時―――後ろから伸びてきた腕が、法介の腰に廻され、法介はベッドの中へと再び引き摺り戻された。
「うわっ!」
驚愕の声を上げる法介に構わず、法介を背後から捕らえた腕は彼を決して逃さないというかの如く、力が込められる。
「どこへ行く気だい?おデコくん」
後ろから耳元へ、低く囁きかけられる声。
明らかにそこには怒りが含まれている。
絶対に今日は逃すまいと、響也は眠った振りをしていたのだ。
「一人とっととベッドを出て行くだなんて、マナー違反だよ。
割り切った打算的な関係ならいざしらず、君と僕とはそういう関係じゃなかった筈だけど?
君の事を恋人だと思っていたのは、僕の思い違いかい?
コトさえ済んでしまえば、君は僕の傍に長くなんて居たくはないのかな?
おデコくんにとって、僕はていの良い性欲の捌け口ということ?」
矢継ぎ早に問いかけられるも、法介は慌てて首を振る。
原因は自分にあるというのに、そんな風に思われていたのかと思うと悔し涙が出そうだった。
「違います!
そんなんじゃありません!
ただ……」
法介はぎゅっと唇を噛み締め、そこで言い淀む。
「ただ、今日中に目を通して置かなければならない資料があることを思い出したんです。
だから帰ろうと思っただけですよ。
仕事を疎かにはできませんからね」
平静を装いつつも、我ながら苦しい言い訳だと法介は思った。
だが本当の気持ちを言う気にはなれなかったのだ。
「そうかい……わかったよ」
しかし、予想外に響也はあっさりと法介の身体を解放した。
「そういうことなら仕方がないよね。
気をつけて、お帰りよ」
呆然と法介は目を見開いた。
とても響也が納得したとは思えなかったのに、掛けられた言葉はその逆だったからだ。
響也からそれ以上何を言うでもなく、口を閉ざした。
その響也を振り返ることはどうしても出来ずに、そのまま法介はベッドから出た。
身体の気だるさを振り払い、立ち上がったところで、法介は気付く。
昨日脱いだ筈の服がない。
鈍痛を訴える腰を無理させて屈みこみ、ベッドの下を探すも、やはり影も形もない。
ここに至って、ようやく法介は響也へと視線を向けた。
ベッドにだらしなく寝そべった響也は、嫌になるほど余裕の笑みを浮かべ、そんな法介を面白そうに見つめている。
「どうしたんだい?おデコくん。
もう帰るんだろう?
僕は止めはしないよ―――帰れるものならね」
「俺の服……隠しましたね!?」
法介が睨み付けても、響也は笑ったままだ。
「さぁ、知らないね。
僕が隠したという証拠でもあるのかな?弁護人」
「証拠って……」
そんなものがある訳がない。
だがどう考えてみても、響也以外にはあり得ないだろう。
「状況証拠だけでは、有罪に持ち込むのは難しいよ。
確固たる物的証拠がないと。
それは君だってよーく知っているよね?」
人の悪い笑みを崩さぬまま、響也は実に楽しそうに語る。
「異議ありだ!
俺が自分の服を隠す筈がない、とすれば残るはここにいるアナタ以外にそんなことをする人物はいない!
状況証拠なんかじゃなく、それ以外あり得ないというリッパな事実です!」
法廷ばりの大声で反論する法介に、
「そうかな?
君が寝惚けて、勝手にどこかに持っていっちゃったんじゃないのかい?
それとも、もしかしたら昨日、いつぞやのパンツ泥棒くんのような酔狂なドロボウが入ってきて、僕たちが眠っている間に君の服を盗んだのかもしれないよ。
そこの窓、どうやら昨日はたまたま鍵をかけ忘れていたみたいだし」
東向きの大きな窓を指差した響也もまた、法廷でいつも見せるような余裕な態度である。
―――ハメられた……。
法介はそう認めざるを得ない。
きっと昨夜法介が気を失うようにして眠りについた後、響也は法介の服を何処かに隠したのだ。
ご丁寧に窓の鍵を開けるという小細工まで施して。
有名人である響也のものならいざ知らず、一般の男である自分の服だけを盗むドロボウがいる確率なんて、限りなくゼロに近い。
だいたいセキュリティが堅固なこの高層マンションの、最上階にあるこの部屋にそう簡単に侵入できるとは思えない。
だが、それは可能性の問題であって、確かに絶対といえるものではない。
もはや返す言葉も持たない法介は、最後の抵抗とばかりにじとーっと恨みがましげな眼差しで響也を見る。
だが案の定、響也はそんなものは何処吹く風である。
「どうしておデコくんはさ、そんなにすぐに帰ろうとする訳?
さっきも聞いたけど、僕と一緒にいるのがそんなに嫌なのかい?」
だがそう問いかけてきた響也の眼差しは真剣だった。
法介はそれを受けて、観念したように俯いた。
「そんなことある訳ないじゃないですか……。
ただ俺と違って、牙琉検事はとても忙しい人だって知ってます。
休日っていったって、本当は色々予定があるんじゃないかと思って……。
俺と過ごす為に、時間を潰させるのは勿体無いじゃないですか」
そこで響也はピンときた。
「はーん……さては、おデコくん、あの話を聞いていたね?」
響也の思い描いた出来事と、法介が早々に響也の元から帰るようになった時期が一致する。
「立ち聞きするつもりは、なかったんですけど……」
もう見抜かれているのだと悟って、下を向いたまま法介は素直にそれを認める。
見抜くのは自分の得意技だと法介は思っていたが、何故だか自分自身のことに関しては、あっさりと響也には見抜かれてしまうのだ。
響也が法介とようやく想いを通じ合わせることが出来たあの頃、検事局の補佐官が食事会の話を持ってきたことがあった。
警察局上層部の面々が、響也に興味を抱き、是非とも一席設けたいと向こうから申し出あったのだと。
今後の検事としての出世を考えれば、警察局の上層部に顔を売っておくことは大いなるプラスなのだから、もの凄いチャンスですと補佐官は力説した。
向こうが指定してきたのは、法介と過ごす予定の休暇の日だった。
「僕は行かないよ」
響也は考えるまでもなく、即答した。
「牙琉検事!」
気色ばむ補佐官を、響也は煩そうに醒めた目で見返す。
「マッタクもって、僕はそんな茶番にキョウミはないんだ。
そんなものより、ずっと大事な予定が僕にはあるんでね」
「貴方は何を考えているんですか!
そうやっていつもいつも上からの誘いを断って……貴方のことを上は随分と評価されているんですよ……なのに……。
天才だとか持て囃されていようが、こんなことを続けていて、どうなっても知りませんよ!」
凄い剣幕の補佐官に対し、響也は馬鹿にしたような笑みを形作った。
「才能があり過ぎるっていうのも、イヤになるね。
どうでもいい人間まで、惹きつけてしまう。
ホント罪作りな男だよ、僕ってさ。
でも残念ながら、その僕の貴重な時間を使えるのは、僕をアツくさせてくれることに対してのみなんだよ」
響也は平然とそんな風に嘯くのだ。
丁度あの後直ぐ、法介が響也のオフィスを訪ねてきたのだ。
そのやり取りを聞かれていたとしても、不思議ではない。
さっき響也が休みだと告げた時、法介の瞳が揺らいだと感じたのも、このことが原因だったのだろう。
法介は響也が無理をして上との誘いを断り、自分との時間を持とうとしているのだと考えているのだ。
「別に僕はおデコくんとの予定がなくたって、あんなツマラナイ誘いに乗る気はないよ。
おデコくんと出会う前だって、ずっと断っていたんだよ。
時間のムダだしね」
「でも……」
「おデコくんはさ、僕がそんなことくらいで本当に潰されるとでも思っているのかい?
それこそアリエナイね、僕のミリオンヒットCDを賭けたっていい」
賭けるものがなんとも彼らしい。
思わず、法介は笑いを漏らしてしまう。
そうだ―――牙琉響也という人はその自信が決して虚勢などではない強さを持っている。
決して圧力に屈するような人間ではない。
そういう彼の強さが、彼に惹かれた一因ではなかったか。
「僕が知りたいのは、君の気持ちだよ。
おデコくんはこの休日を僕と過ごしたいのか、過ごしたくないのか……どちらだい?」
響也の問い掛けに、法介はやっと顔を上げた。
「一緒に過ごしたいに決まってるじゃないですか」
恋人と共に居たいと思うのは、当然だ。
きっぱりと言い切った、泣き笑いのような表情の法介の方へと、響也は身を乗り出す。
そうして法介の腕を掴むと、そのままベッドへと彼の身体を引き込む。
腕の中に法介の身体を収めると、響也は心底嬉しそうな笑顔を見せる。
「なら、僕の気持ちと一緒だよね。
僕としてはさ、折角の休日は、日常のシガラミなんかは一切忘れて―――こうして愛しい人とイチャイチャして過ごしたい訳さ」
どうして彼はそういう台詞を恥ずかしげもなく、さらりと口に出せるのだろう。
どう逆立ちしても、法介には一生真似できそうにもない。
したいとも思わないが。
けれどその言葉を嬉しく思わない訳ではなかった。
気恥ずかしさを覚えながらも、法介は心が温かく満たされていくのを感じる。
響也の腕に抱かれたまま、法介は身体の力を抜くと、目を閉じるのだった―――。
「なにをニヤニヤと笑ってるんですか?」
ふと目を覚ました法介が、隣で寄り添う響也へと呆れたように問う。
「おデコくんの寝顔を見ながら、以前の君の事を思い出してたんだよ。
僕を想い、一人ケナゲに帰っていってしまってた君の本心を聞かせてもらったあの時のさ。
あの時の君は可愛かったよね」
「男に可愛いなんて言われても、嬉しくないんですけど。
第一、そんな昔のことはすーっかり忘れましたよ、俺は」
響也のからかうような口調に、法介は大仰な溜息で応える。
響也はやれやれと肩を竦めた。
「そんな昔のことでもないと思うけど……オジサンはもう老化が始まっちゃったのかな?
可愛げもすっかり無くなっちゃってさ」
「アナタの方が年上だろ!」
と法介は言い返すも、すぐに諦めの息を吐く。
こういう時の響也に、何を言おうが体力と気力の無駄なのだ。
それでなくても法介の身体は疲れきっていた。
「誰かさんのせいで、俺は疲れ果ててるんです。
もう少し寝かせてもらいますからね」
一方的に会話を打ち切って、法介は目を閉じる。
当然のように響也の胸元に顔を寄せて。
そうすると、不思議とすぐに眠りはやってくるのだ。
その法介の身体を包み込むように、抱きしめる気配がある。
法介の意識はそのまま心地よい眠りへと落ちていく。
それを響也は優しい微笑を浮かべながら見つめる。
言葉に出さなくとも、共に幸せな気持ちに満たされ、こうして休日を過ごす―――それが今や二人の日常になっていた。
しかし、いくら弄ってみても、手は冷たいシーツの上を滑るのみだ。
ようやくゆっくりと響也は、目を開けた。
ぼんやりと霞む意識の中、先ほど手で探っていた右側へと視線を向ける。
やはりそこには何の存在もない。
キングサイズのベッドなだけに、その空いた空間が殊更寒々しかった。
やがて響也の淡い色合いの瞳に、しっかりとした光が宿り始める。
再度右手を確認して、はぁ……と落胆したような深い溜息を吐くと、響也は上肢を起こした。
身体を覆っていたシーツが上半身から滑り落ち、何も身に纏っていない、褐色の引き締まった体躯が露になる。
響也は別に寝惚けていた訳ではない。
響也が目を閉じる前、右隣には確かに別の人間が共に眠っていたのだ。
昨夜は、その温もりを右腕に抱いて、とても満たされ幸せな気持ちのまま響也は眠りについた。
しかし、今その人影はない。
こんなことは、今回が初めて……という訳でない。
いつも相手は響也が眠っている間に、そっと彼の腕の中から抜け出してしまう。
眠りは浅いタイプの響也だったが、その相手とベッドを共にした日は、自分でも不思議なくらい深い眠りに落ちてしまう。
だから相手が起きる気配に気付かず、響也が目を覚ました時には既にその姿はないのだ。
一緒に朝を迎えたことが、果たして何度あっただろうか。
所謂恋人同士になった当初の数度しか、響也の記憶には残っていない。
目が覚めるまでとは真逆の沈んだ気持ちで、響也はベッドから降りると、床に落ちていたシャツとジーンズを手早く身に付ける。
そのまま寝室を出て、辺りの気配を探るが、やはり自分以外誰もいないようだった。
代わりに、ダイニングテーブルの上にメモ書きが残されていた。
―――予定があるので、帰ります。
響也の見覚えのある文字で書かれていたのは、たったそれだけの文章。
一体今まで何度この文章を読まされたことか。
「おデコくん……確か今日は休みだったはずだろう?」
不機嫌そうに響也は問いかけるが、当然返る答えはない。
「この僕と夜を過ごしながら、僕の目覚めを待たずに帰るなんて、随分じゃないか。
僕と一分一秒でも長く居たいと思う子は沢山いるっていうのに、さっさといなくなるとはどういう了見なんだろうね。
世の女の子達が知ったら、袋叩きにされても文句は言えないよ?」
返答など無くても気にも留めず、響也はぶつぶつと愚痴る。
―――王泥喜法介に向けて。
「この間はすみませんでした」
法介は、響也のマンションにやって来た早々、そういって詫びた。
あれからしばらく互いに仕事が忙しく、裁判所等で顔を会わせることはあったが、こうして二人きりで会うのは久しぶりのことだった。
仕事で顔を会わせる時には、響也はいつも通りの態度を崩そうとはしなかった。
プライベートで思うところはあるとは故、それを公の場で見せるほど響也は子供ではない。
だが今は響也のマンションで二人きりだ。
響也は不機嫌そうな表情を、隠そうともしない。
「その台詞を聞くのも、何度目だろうね。
―――まぁ、いいさ」
響也は大げさに肩をすくめ、諦めたように首を振った。
まだまだ愚痴りたい気持ちはあったが、今までも散々繰り返してきたことだ。
いい加減、自分でも嫌になる。
「明日は休みなのかい?」
折角の久方ぶりの逢瀬なのに、いつまでも終わったことに対して不機嫌でいても仕方が無い。
それまでの表情を和らげ、響也は話題を転換する。
法介の方も謝るということは、悪いとは思っているのだろう。
但し、その謝罪が全く生かされていないことが問題なのだが、響也は今回もひとまず水に流すことにする。
「あぁ、はい」
法介は響也の声が柔らかくなったことに安堵した様子で、頷いた。
大抵法介がこうして響也の自宅にやって来るのは、休日前が多い。
「そう。
僕も明日は休日だよ、久々のね」
それは偶然なのではなく、二人の取り扱う事件が重なることが多いので、休日も同じになる割合は高い。
ただ響也の場合は、法介が三度休みを取るうちに、一度休めれば良い方ではあったのだが。
駆け出し弁護士の法介より、どうしても抱えている案件が多くなってしまうからだ。
響也が休みと聞いて、一瞬法介の瞳が揺らいだ気がした。
だがすぐにいつも通りに戻ってしまう。
「どうかした?」
訊ねる響也に、法介は普段どおりの明るい笑顔を見せる。
「別になんでもありませよ。
それより俺、もうお腹が減って倒れそうなんですけど」
そんな風にあっけらかんと言われてしまえば、気のせいかという気もする。
法介の言葉を証明するように、その時彼の腹が盛大に鳴ったのだった。
それから二人で外に食事に出掛けた。
「そこでみぬきちゃんのマジックが……」
などと、面白おかしく法介は、ここ最近の出来事を語る。
響也も法介もそんな他愛も無い会話を重ねながらも、離れていた時を埋めていく。
この時を響也はとても楽しんでいたし、それは法介も同じように思えた。
自分と過ごすことを嫌がっているような素振りは無い。
なのに―――いつも法介は明くる日、互いに休みにもかかわらず、何の未練も残さずにさっさと消えてしまうのだ。
その後、再び響也のマンションに戻り、酒を飲む。
あまり法介が酒に強くないことを響也は知っていたから、彼が完全に酔ってしまう前にグラスを取り上げる。
そこで法介を抱き寄せると、彼の広い額に軽くキスする。
「抱いてもいいかな?」
囁くように甘い声で響也が訊ねれば、返事の変わりに、法介の腕が響也の背に廻された。
決して響也は自分の情欲だけを優先させることはない。
法介とて気分が乗らない時もあるだろう。
そんな時は決して無理強いはしない。
どうしても法介に掛かる負担の方が大きいのだから。
第一、二人の気持ちが通じ合っていなければ、ただ虚しいだけだと思う。
「一緒にキモチヨクなろうよ、ね?」
そうでなければ意味はない。
二人は立ち上がり、口付けを交わしながら、響也の寝室へと向かう。
真っ赤に顔を染めながらも、響也のキスに必死に応えてくる法介を愛しく思う。
最初の頃はキス一つで、がちがちに固まっていた法介の姿を思い返しながら―――。
ようやく空が白み始めた頃、法介はそっと目を開く。
法介の身体は、響也に包み込むようにしてしっかりと抱きしめられている。
耳元からはドクドクと力強い鼓動が、頭上からは規則正しい寝息が聞こえてくる。
響也の胸元からゆっくりと顔を上げると、ぐっすりと眠っている響也の端正な顔が視界に入る。
目が閉じられていても、ドキリとする顔立ちだ。
世の女性たちが夢中になるのも、男の自分から見ても納得できる。
まさかその彼と、こんな関係になるなんて、出遭った頃は微塵も想像していなかったのだが……。
法介はいつものように、響也を起こさぬように細心の注意を払いながら、そーっと彼の腕の中から抜け出す。
ベッドから降りようとした、その時―――後ろから伸びてきた腕が、法介の腰に廻され、法介はベッドの中へと再び引き摺り戻された。
「うわっ!」
驚愕の声を上げる法介に構わず、法介を背後から捕らえた腕は彼を決して逃さないというかの如く、力が込められる。
「どこへ行く気だい?おデコくん」
後ろから耳元へ、低く囁きかけられる声。
明らかにそこには怒りが含まれている。
絶対に今日は逃すまいと、響也は眠った振りをしていたのだ。
「一人とっととベッドを出て行くだなんて、マナー違反だよ。
割り切った打算的な関係ならいざしらず、君と僕とはそういう関係じゃなかった筈だけど?
君の事を恋人だと思っていたのは、僕の思い違いかい?
コトさえ済んでしまえば、君は僕の傍に長くなんて居たくはないのかな?
おデコくんにとって、僕はていの良い性欲の捌け口ということ?」
矢継ぎ早に問いかけられるも、法介は慌てて首を振る。
原因は自分にあるというのに、そんな風に思われていたのかと思うと悔し涙が出そうだった。
「違います!
そんなんじゃありません!
ただ……」
法介はぎゅっと唇を噛み締め、そこで言い淀む。
「ただ、今日中に目を通して置かなければならない資料があることを思い出したんです。
だから帰ろうと思っただけですよ。
仕事を疎かにはできませんからね」
平静を装いつつも、我ながら苦しい言い訳だと法介は思った。
だが本当の気持ちを言う気にはなれなかったのだ。
「そうかい……わかったよ」
しかし、予想外に響也はあっさりと法介の身体を解放した。
「そういうことなら仕方がないよね。
気をつけて、お帰りよ」
呆然と法介は目を見開いた。
とても響也が納得したとは思えなかったのに、掛けられた言葉はその逆だったからだ。
響也からそれ以上何を言うでもなく、口を閉ざした。
その響也を振り返ることはどうしても出来ずに、そのまま法介はベッドから出た。
身体の気だるさを振り払い、立ち上がったところで、法介は気付く。
昨日脱いだ筈の服がない。
鈍痛を訴える腰を無理させて屈みこみ、ベッドの下を探すも、やはり影も形もない。
ここに至って、ようやく法介は響也へと視線を向けた。
ベッドにだらしなく寝そべった響也は、嫌になるほど余裕の笑みを浮かべ、そんな法介を面白そうに見つめている。
「どうしたんだい?おデコくん。
もう帰るんだろう?
僕は止めはしないよ―――帰れるものならね」
「俺の服……隠しましたね!?」
法介が睨み付けても、響也は笑ったままだ。
「さぁ、知らないね。
僕が隠したという証拠でもあるのかな?弁護人」
「証拠って……」
そんなものがある訳がない。
だがどう考えてみても、響也以外にはあり得ないだろう。
「状況証拠だけでは、有罪に持ち込むのは難しいよ。
確固たる物的証拠がないと。
それは君だってよーく知っているよね?」
人の悪い笑みを崩さぬまま、響也は実に楽しそうに語る。
「異議ありだ!
俺が自分の服を隠す筈がない、とすれば残るはここにいるアナタ以外にそんなことをする人物はいない!
状況証拠なんかじゃなく、それ以外あり得ないというリッパな事実です!」
法廷ばりの大声で反論する法介に、
「そうかな?
君が寝惚けて、勝手にどこかに持っていっちゃったんじゃないのかい?
それとも、もしかしたら昨日、いつぞやのパンツ泥棒くんのような酔狂なドロボウが入ってきて、僕たちが眠っている間に君の服を盗んだのかもしれないよ。
そこの窓、どうやら昨日はたまたま鍵をかけ忘れていたみたいだし」
東向きの大きな窓を指差した響也もまた、法廷でいつも見せるような余裕な態度である。
―――ハメられた……。
法介はそう認めざるを得ない。
きっと昨夜法介が気を失うようにして眠りについた後、響也は法介の服を何処かに隠したのだ。
ご丁寧に窓の鍵を開けるという小細工まで施して。
有名人である響也のものならいざ知らず、一般の男である自分の服だけを盗むドロボウがいる確率なんて、限りなくゼロに近い。
だいたいセキュリティが堅固なこの高層マンションの、最上階にあるこの部屋にそう簡単に侵入できるとは思えない。
だが、それは可能性の問題であって、確かに絶対といえるものではない。
もはや返す言葉も持たない法介は、最後の抵抗とばかりにじとーっと恨みがましげな眼差しで響也を見る。
だが案の定、響也はそんなものは何処吹く風である。
「どうしておデコくんはさ、そんなにすぐに帰ろうとする訳?
さっきも聞いたけど、僕と一緒にいるのがそんなに嫌なのかい?」
だがそう問いかけてきた響也の眼差しは真剣だった。
法介はそれを受けて、観念したように俯いた。
「そんなことある訳ないじゃないですか……。
ただ俺と違って、牙琉検事はとても忙しい人だって知ってます。
休日っていったって、本当は色々予定があるんじゃないかと思って……。
俺と過ごす為に、時間を潰させるのは勿体無いじゃないですか」
そこで響也はピンときた。
「はーん……さては、おデコくん、あの話を聞いていたね?」
響也の思い描いた出来事と、法介が早々に響也の元から帰るようになった時期が一致する。
「立ち聞きするつもりは、なかったんですけど……」
もう見抜かれているのだと悟って、下を向いたまま法介は素直にそれを認める。
見抜くのは自分の得意技だと法介は思っていたが、何故だか自分自身のことに関しては、あっさりと響也には見抜かれてしまうのだ。
響也が法介とようやく想いを通じ合わせることが出来たあの頃、検事局の補佐官が食事会の話を持ってきたことがあった。
警察局上層部の面々が、響也に興味を抱き、是非とも一席設けたいと向こうから申し出あったのだと。
今後の検事としての出世を考えれば、警察局の上層部に顔を売っておくことは大いなるプラスなのだから、もの凄いチャンスですと補佐官は力説した。
向こうが指定してきたのは、法介と過ごす予定の休暇の日だった。
「僕は行かないよ」
響也は考えるまでもなく、即答した。
「牙琉検事!」
気色ばむ補佐官を、響也は煩そうに醒めた目で見返す。
「マッタクもって、僕はそんな茶番にキョウミはないんだ。
そんなものより、ずっと大事な予定が僕にはあるんでね」
「貴方は何を考えているんですか!
そうやっていつもいつも上からの誘いを断って……貴方のことを上は随分と評価されているんですよ……なのに……。
天才だとか持て囃されていようが、こんなことを続けていて、どうなっても知りませんよ!」
凄い剣幕の補佐官に対し、響也は馬鹿にしたような笑みを形作った。
「才能があり過ぎるっていうのも、イヤになるね。
どうでもいい人間まで、惹きつけてしまう。
ホント罪作りな男だよ、僕ってさ。
でも残念ながら、その僕の貴重な時間を使えるのは、僕をアツくさせてくれることに対してのみなんだよ」
響也は平然とそんな風に嘯くのだ。
丁度あの後直ぐ、法介が響也のオフィスを訪ねてきたのだ。
そのやり取りを聞かれていたとしても、不思議ではない。
さっき響也が休みだと告げた時、法介の瞳が揺らいだと感じたのも、このことが原因だったのだろう。
法介は響也が無理をして上との誘いを断り、自分との時間を持とうとしているのだと考えているのだ。
「別に僕はおデコくんとの予定がなくたって、あんなツマラナイ誘いに乗る気はないよ。
おデコくんと出会う前だって、ずっと断っていたんだよ。
時間のムダだしね」
「でも……」
「おデコくんはさ、僕がそんなことくらいで本当に潰されるとでも思っているのかい?
それこそアリエナイね、僕のミリオンヒットCDを賭けたっていい」
賭けるものがなんとも彼らしい。
思わず、法介は笑いを漏らしてしまう。
そうだ―――牙琉響也という人はその自信が決して虚勢などではない強さを持っている。
決して圧力に屈するような人間ではない。
そういう彼の強さが、彼に惹かれた一因ではなかったか。
「僕が知りたいのは、君の気持ちだよ。
おデコくんはこの休日を僕と過ごしたいのか、過ごしたくないのか……どちらだい?」
響也の問い掛けに、法介はやっと顔を上げた。
「一緒に過ごしたいに決まってるじゃないですか」
恋人と共に居たいと思うのは、当然だ。
きっぱりと言い切った、泣き笑いのような表情の法介の方へと、響也は身を乗り出す。
そうして法介の腕を掴むと、そのままベッドへと彼の身体を引き込む。
腕の中に法介の身体を収めると、響也は心底嬉しそうな笑顔を見せる。
「なら、僕の気持ちと一緒だよね。
僕としてはさ、折角の休日は、日常のシガラミなんかは一切忘れて―――こうして愛しい人とイチャイチャして過ごしたい訳さ」
どうして彼はそういう台詞を恥ずかしげもなく、さらりと口に出せるのだろう。
どう逆立ちしても、法介には一生真似できそうにもない。
したいとも思わないが。
けれどその言葉を嬉しく思わない訳ではなかった。
気恥ずかしさを覚えながらも、法介は心が温かく満たされていくのを感じる。
響也の腕に抱かれたまま、法介は身体の力を抜くと、目を閉じるのだった―――。
「なにをニヤニヤと笑ってるんですか?」
ふと目を覚ました法介が、隣で寄り添う響也へと呆れたように問う。
「おデコくんの寝顔を見ながら、以前の君の事を思い出してたんだよ。
僕を想い、一人ケナゲに帰っていってしまってた君の本心を聞かせてもらったあの時のさ。
あの時の君は可愛かったよね」
「男に可愛いなんて言われても、嬉しくないんですけど。
第一、そんな昔のことはすーっかり忘れましたよ、俺は」
響也のからかうような口調に、法介は大仰な溜息で応える。
響也はやれやれと肩を竦めた。
「そんな昔のことでもないと思うけど……オジサンはもう老化が始まっちゃったのかな?
可愛げもすっかり無くなっちゃってさ」
「アナタの方が年上だろ!」
と法介は言い返すも、すぐに諦めの息を吐く。
こういう時の響也に、何を言おうが体力と気力の無駄なのだ。
それでなくても法介の身体は疲れきっていた。
「誰かさんのせいで、俺は疲れ果ててるんです。
もう少し寝かせてもらいますからね」
一方的に会話を打ち切って、法介は目を閉じる。
当然のように響也の胸元に顔を寄せて。
そうすると、不思議とすぐに眠りはやってくるのだ。
その法介の身体を包み込むように、抱きしめる気配がある。
法介の意識はそのまま心地よい眠りへと落ちていく。
それを響也は優しい微笑を浮かべながら見つめる。
言葉に出さなくとも、共に幸せな気持ちに満たされ、こうして休日を過ごす―――それが今や二人の日常になっていた。
2007.05.10 up