抜けない

閉じられていた扉の鍵を開け、響也は暗い室内へと足を踏み入れた。
長い間誰も立ち入らなかった為か、むっとした熱が中に籠っている。
壁際のスイッチを押すと、電灯が点り、部屋の中を照らし出す。
響也はそのまま窓際に寄り、窓を開け放ち、籠った空気を入れ替えてやる。

そうして改めて、周囲を見渡した。
ここの主の性格を現すように、綺麗に片付けられた室内。
重厚感ある磨きぬかれた木製のデスクとチェアが窓を背にして置かれている。
その向かいには、スチール製の一般的な事務デスクもいくつか並べられている。

響也はその木製のデスクの元へと足を進めた。
部屋の中と同じく、机の上もきちんと整頓されている。
ただ一輪挿しに活けられたバラの花は、流石に萎れ、その花弁が机上に散っていた。
そのデスクをそっとなぞりながら、響也の視線は机の中央に置かれた眼鏡へと注がれている。
ここの主であり、響也の最も身近にいた人間の……それは予備の眼鏡と思われた。

「ここでアンタは何を考え、何を想い、日々過ごしていたんだい?」
響也はその眼鏡に向かって、ぽつりと問い掛ける。
当然返る答えなどない。
ここに主が戻ってくることは、恐らくもう二度とないだろう。
人として越えてはいけない一線を越えてしまったのだから。

響也は眼鏡を手に取り、それを掛けてみる。
そうすれば少しでも、この眼鏡の持ち主の男の心の内が理解できるのではと―――そんな馬鹿なことを考えて。
顔を上げれば、壁際の丸い掛け鏡に、己の顔が映し出されていた。
似ている―――とその顔を見つめながら、自分でも思う。
今日は諸事情で珍しくスーツを着用しているから、余計に似て見える。
だがやはりその心中は、当然理解できない。
己の矜持と野心……そんな下らぬものの為に法を侵した者の利己的な考えなど。

「馬鹿馬鹿しい……」
自嘲気味に唇を歪め、眼鏡を取ろうとした時、がちゃりと扉の開く音がした。
はっとして響也がそちらを向くと、よく見知った男が立ち竦んでいた。
しかしいつもの彼らしくなく、その顔色は蒼褪め、驚愕したように大きく目を見開いる。
「先生……」
響也を見つめながら、呆然と彼は呟く。
そのまま呪縛にでもかかったかのように、動かない。
「おデコくん!」
見兼ねた響也が声を掛けると、はっとしたように彼―――王泥喜法介は目を瞬いた。
まるで夢から醒めた様に。

「牙琉……検事……?」
法介の瞳に、徐々に光が戻ってくる。
響也が惹かれてやまない、全てを見透かすかのような綺麗な瞳が、今度はしっかりと響也を捉えた。
「すみません……オレ……」
だがすぐに申し訳なさそうに、法介は項垂れた。
「いや、構わないよ。
そんなにあの人に似ていたかい?」
響也はなんでもないことのように明るい口調で言うが、法介はぐっと拳を握り締め俯いたままだ。

小さく息を吐き、響也は眼鏡を外す。
元あった場所に、それを戻した。
「どうして此処へ?」
静かに問い掛ければ、
「偶然この辺りを通りかかったら、事務所の明かりが点いているのが目に入ったので……」
法介は下を向いたまま、ぼぞりと答える。

此処は牙琉法律事務所。
その所長は、現在殺人の罪で中央刑務所に収監されている牙琉霧人である。
彼は響也の兄であり、そして法介の師匠というべき存在であった。
それが運命だったのか、はたまた単なる偶然だったのか、その罪を暴くこととなったのは、新人弁護士の法介だった。
それと同時に七年前のとある事件についても、真相が解明されたのだ。

そうして七年越しの事件は、解決した。
けれど、法介の中では未だにそれらを消化しきれていないことに、響也は気づいていた。
法介自身はあっけらかんとした様子で、事件のことを引きずっているような態度を周囲に見せないよう振舞っているようだった。
だがふとした瞬間に、法介の瞳に暗い翳りが落ちることがある。
物憂げな表情で、あの事件の資料を読み返していることもあった。
王泥喜法介にとって牙琉霧人は、今尚抜けない棘となって彼の胸に突き刺さっている。

そこに嫉妬を全く感じないかと言われれば、嘘になる。
法介が響也に寄せてくれる感情と、霧人に向ける想いとは、異なる性質のものだと理解してはいたけれど。
だがそれよりも、響也は法介の哀しみや苦しみを少しでも良いから、癒してやりたいと思うのだ。

「本当にすみませんでした……その……見間違えてしまって」
響也の沈黙を怒りと取ったのか、法介は再び謝罪する。
いつもの元気はどこへやらだ。
余程響也と霧人を見間違えたことに落ち込んでいるようだ。
「おデコくん、キミはぼくをあの人の代わりとして見ているのかい?
そうだというのなら、ぼくは怒るけど―――」
「違います!」
強い口調で言って、法介はばっと顔を上げた。
心外だというように厳しい目付きで、響也を睨みつける。

予想通りの反応だった。
響也は法介とは対照的に、ふっと微笑んだ。
「なら、そんな風にキミが詫びる必要はないね。
キミが牙琉響也という人間をちゃんと愛してくれているって、ぼくは分かっているよ。
キミのそのウサギの耳みたいな前髪が乱れて、広いおデコを隠した顔も、甘えるような声も、艶っぽく潤んだ瞳も―――あの人に見せたことはないだろう?
ぼくだけに見せてくれるキミが沢山あるよね……あとはキスを強請って……」
「うわーっ!
ちょ……ちょっと、牙琉検事!
いきなりなんてことを言い出すんですか!?」
顔を羞恥に染めて、法介は慌てて響也の言葉を遮る。
明らかに響也は、ベッドを共にする時の法介の様子を、並び立ている。
法介が未だにそういったことにあまり耐性がないのを、知っているにもかかわらず。

「貴方には恥ってものがないんですか!?」
怒鳴る法介に、人の悪い笑みを浮かべて響也は肩を竦めた。
「ぼくは事実を述べているだけだけど?
弁護士が真実から目を背けていいのかな?」
「異議あり!
今の発言は、現在の状況とは全く関係のないものと思われます!」
どうやらいつもの調子が戻ってきたようだ。
響也は法介に気付かれぬ程度の、安堵の息を漏らした。

霧人に間違えられたことついて、響也は別段何のショックも受けなかった。
法介に告げた通り、怒ってもいない。
牙琉霧人の弁護士事務所、そっくりの顔立ちの人間、眼鏡、スーツ―――そんな限定的な要因が偶々揃ってしまった為に、見間違えられたに過ぎない。
ただそれだけのこと。
特に霧人のことが棘となり刺さっている法介にとっては、不安定になってしまっても仕方がない。

そんな法介の想いを疑うほど、響也は小さな人間ではなかった。
仮に彼が自分に霧人の影を追い求めていたとしても、響也はそれに気付かぬ程鈍くもない。
法介の気持ちは、自分を見つめてくれる綺麗な彼の目が、いつも雄弁に物語っている。
それで充分伝わっているのだ。

「キミの席はどこだったんだい?」
法介の望みに従い、響也は話題を転換してやる。
すると法介はあからさまにほっとしたような表情を浮かべ、霧人のデスクの向かいの机の前へと立った。
「ここです」
懐かしそうに目を細め、法介は机を撫でる。
机の上には、六法全書が載せられていた。
「これは先生から頂いたものなんです。
先生は凄腕の弁護士として、法曹界でも一目置かれる存在で―――そんな先生の事務所で働けるなんて夢のようでした。
新人弁護士のオレに、これから一緒に頑張りましょうと声を掛けてくれて、弁護士として本当に色々なことを教えて貰いました。
何故だかまだ右も左も分からないようなオレを雇って、指導してくれた優しい先生だったんですよ。
とても尊敬していました……いつかは先生のような弁護士になりたいと。
そんな先生の全てが嘘だったなんて―――オレは正直信じたくありません」
再び法介の顔が、辛そうに歪んだ。

(あー、ぼくとしたことが失敗したなぁ……)
また法介を落ち込ませてしまったことに、響也は珍しく素直に反省する。
そんな響也の表情にいち早く気付いた法介は、慌てて首を振った。
「オレ、大丈夫ですから!
ちょっと感傷的な気分になっちゃったというか……らしくないですよね、あはははは」
と、法介は明るく笑って見せる。
けれど視線は六法全書に向けられたままだ。

響也は、そんな法介の方へと足を進める。
そうして六法全書を見つめる法介を、背中からぎゅっと抱きしめた。
言葉はなにもない。
ただ包み込むようにして、響也は法介を抱きしめる。

いつもなら、羞恥からか不慣れな故か、なかなか響也の素直に抱擁を受け入れよう法介だが、何を想うのか今は大人しく身を委ねている。
後ろから抱いている為に、法介の表情は見えない。
だが響也にはそれが簡単に想像できた。
抱きしめる腕に、響也は僅かに力を込める。

(ぼくがここにいる。
いつでもぼくがうけとめてあげるから。
どうかぼくの前でだけは無理をしないでおくれよ)

そんな願いを込めて。



2007.05.03 up