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行こう
御剣が検事局のエントランスに足を踏み入れた時、後ろから彼を呼ぶ声があった。
それは御剣がよく知る声だった。
立ち止まり振り返ると、声の主は予想通り弁護士の成歩堂龍一で、こちらへと小走りで近付いてくる。
「おはよう、御剣」
「あぁ、おはよう」
実はこんな挨拶を交わしたのは、今日二度目なのだ。
一度目は、今朝早く―――御剣の自宅のベッドの中で。
そう思うと少し滑稽な気がするが、ここにいる成歩堂と、自宅のマンションで自分の腕の中、目を覚ました成歩堂とは別なのだと納得する。
今目の前にいる彼は「弁護士」で、早朝部屋を出ていくまでの彼は「恋人」なのだ。
事実にこやかな笑みを浮かべる成歩堂は、昨夜の情事の名残などまるで感じさせない。
弁護士として周囲が認識している彼の顔だ。
それはまた自分も同じであろうと、御剣は確信している。
しかしその成歩堂が何故検事局にやって来たのかは、分からなかった。
お互いプライベートでは仕事の話をすることはないのだ。
御剣の疑問を制するように、成歩堂は口を開いた。
「君に借りた資料を返しに来たんだよ。
丁度この辺りに来る用事があったんでね。
あと出来れば、何冊か本を貸してもらいたいと思って」
「ウム、それは構わんが」
ついでとは言え、わざわざ返しに来るところが、見かけによらず律儀な男だと御剣は思う。
それほど重要なものではないから、送ってくれて構わないと貸し出す時に、伝えていたのにと。
検事局の御剣の部屋には、片方の壁一面に書棚が設置されており、ぎっしりと本が並んでいる。
それを知った成歩堂は時折こうやって、それらを借りにやって来るのだった。
二人は並んで歩き始めた。
しかしすぐに御剣ははっとして足を止めた。
「御剣……?」
怪訝そうな顔で成歩堂も立ち止まり、御剣を見遣る。
「いや……なんでもない」
咄嗟にそう答えながらも、御剣の視線は前方のエレベータホールに注がれている。
御剣の部屋は、普通ならばエレベータを使うような階にある。
しかし、御剣はいつも階段を利用していた。
エレベータには乗れないのだ。
幼少の時の事件の影響で。
事件そのものは、成歩堂の手によって真実が解明され、御剣は長年の呪縛から解き放たれた。
だが、エレベータや地震に対しては、未だに過剰に反応してしまう。
頭では理解しているつもりでも、身体は恐怖に支配されてしまう。
大きなトラウマになっているのだ。
今まで幾度も検事局の部屋で、成歩堂とは顔を合わせていたが、彼は御剣が部屋にいる時に訪ねてきていた。
その為、こんな風に一緒に部屋に向かうことはなかったのだ。
当然、成歩堂はエレベータを利用するつもりだろう。
正直に未だエレベータに恐怖を感じることを彼に話してしまえば良いのだが、御剣にはそれが躊躇われた。
折角成歩堂があの事件を解決し、自分を助けてくれたのに、未だに過去の傷が治りきっていないと知られるのは抵抗がある。
正直に話せば、彼はどんな反応を見せるだろうか。
怒るか。
呆れるか。
憐れむか。
軽蔑するか。
そのどれも、御剣には耐えられない。
「じゃ、行こうか」
御剣の心の内など知らぬであろう成歩堂が、再び歩き出す。
彼の後に続きながら、近付いてくるエレベータホールに、御剣の心臓はドクドクと激しい動悸を繰り返す。
額に冷や汗が滲んできたが、表面上は何ともない風を懸命に装う。
しかし、その後すぐに、御剣は大きく目を見開くこととなった。
成歩堂がエレベータホールを横切り、ごく自然に階段へと向かったからだ。
立ち竦む御剣を、成歩堂は振り返った。
「最近、運動不足だからさ……ちょっと鍛えようかと思って。
君も付き合ってくれよ」
そんな風に言って、笑顔を見せる。
「……」
御剣は返すべき答えが咄嗟に出てこず、じっと成歩堂を見つめる。
成歩堂の瞳は凪のように穏やかだった。
そこには怒りも、嘲りも、呆れも―――そんな御剣が怖れるような感情は何一つ浮かんでいない。
きっと彼は分かっているのだ。
自分が未だに事件の影響で、エレベータに乗れないことを。
何も言わなくても、彼には悟られてしまっている。
そして静かに自分を見守っていくれているのだ。
そう思う同時に、御剣は自身が恥ずかしくなった。
そんな彼の気持ちなど思いもよらず、事実を知られてしまばきっと何らかの負の感情を持たれるものだとばかり思っていた。
成歩堂龍一がそんな男でないことは、自分が一番に理解していた筈なのに……勝手に疑心暗鬼に陥ってしまった。
結局自分自身が、成歩堂を貶めてしまっていたのだと気付いて、御剣は情けなくなる。
「成歩堂……すまない」
御剣が詫びれば、成歩堂はきょとんと目を丸くした。
「なんのこと?
あっ、もしかして僕に付き合って階段を上るのを拒否しているのかい?
うわーっ、友達甲斐のない奴だなぁ……」
そんな風に、ぼやいてみせる成歩堂に、御剣はふっと笑みを漏らす。
これもまた、彼の気遣いなのだ。
御剣に負担を掛けさせまいとしての。
「致し方あるまい……私も付き合ってやろう。
体力不足の弁護人に、審理の途中で息切れされても困るからな」
御剣もわざとそんな尊大な態度に出る。
謝罪などではなく、いつもの御剣であること―――それを成歩堂が望んでいると思ったからだ。
「よし!じゃぁ競争しよう!
どっちが先に君の部屋に辿り着くか。
負けた方が、今日の昼飯を奢ること!」
言って、御剣の返事も待たず、成歩堂は階段を駆け上がり始める。
「あっ、こら待ちたまえ、成歩堂!
大の大人がそんな子供じみた真似出来る筈ないだろう!」
などと嗜めつつ、何だかんだと御剣もそれを追う。
勝負と名のつくものを御剣が無視できないことを、成歩堂は知っているのだ。
御剣は成歩堂の背を追う。
いつも何処か陰鬱めいた気持ちで昇る階段も、今日は楽しい。
本当に彼には敵わない―――そう思いながら。
それは御剣がよく知る声だった。
立ち止まり振り返ると、声の主は予想通り弁護士の成歩堂龍一で、こちらへと小走りで近付いてくる。
「おはよう、御剣」
「あぁ、おはよう」
実はこんな挨拶を交わしたのは、今日二度目なのだ。
一度目は、今朝早く―――御剣の自宅のベッドの中で。
そう思うと少し滑稽な気がするが、ここにいる成歩堂と、自宅のマンションで自分の腕の中、目を覚ました成歩堂とは別なのだと納得する。
今目の前にいる彼は「弁護士」で、早朝部屋を出ていくまでの彼は「恋人」なのだ。
事実にこやかな笑みを浮かべる成歩堂は、昨夜の情事の名残などまるで感じさせない。
弁護士として周囲が認識している彼の顔だ。
それはまた自分も同じであろうと、御剣は確信している。
しかしその成歩堂が何故検事局にやって来たのかは、分からなかった。
お互いプライベートでは仕事の話をすることはないのだ。
御剣の疑問を制するように、成歩堂は口を開いた。
「君に借りた資料を返しに来たんだよ。
丁度この辺りに来る用事があったんでね。
あと出来れば、何冊か本を貸してもらいたいと思って」
「ウム、それは構わんが」
ついでとは言え、わざわざ返しに来るところが、見かけによらず律儀な男だと御剣は思う。
それほど重要なものではないから、送ってくれて構わないと貸し出す時に、伝えていたのにと。
検事局の御剣の部屋には、片方の壁一面に書棚が設置されており、ぎっしりと本が並んでいる。
それを知った成歩堂は時折こうやって、それらを借りにやって来るのだった。
二人は並んで歩き始めた。
しかしすぐに御剣ははっとして足を止めた。
「御剣……?」
怪訝そうな顔で成歩堂も立ち止まり、御剣を見遣る。
「いや……なんでもない」
咄嗟にそう答えながらも、御剣の視線は前方のエレベータホールに注がれている。
御剣の部屋は、普通ならばエレベータを使うような階にある。
しかし、御剣はいつも階段を利用していた。
エレベータには乗れないのだ。
幼少の時の事件の影響で。
事件そのものは、成歩堂の手によって真実が解明され、御剣は長年の呪縛から解き放たれた。
だが、エレベータや地震に対しては、未だに過剰に反応してしまう。
頭では理解しているつもりでも、身体は恐怖に支配されてしまう。
大きなトラウマになっているのだ。
今まで幾度も検事局の部屋で、成歩堂とは顔を合わせていたが、彼は御剣が部屋にいる時に訪ねてきていた。
その為、こんな風に一緒に部屋に向かうことはなかったのだ。
当然、成歩堂はエレベータを利用するつもりだろう。
正直に未だエレベータに恐怖を感じることを彼に話してしまえば良いのだが、御剣にはそれが躊躇われた。
折角成歩堂があの事件を解決し、自分を助けてくれたのに、未だに過去の傷が治りきっていないと知られるのは抵抗がある。
正直に話せば、彼はどんな反応を見せるだろうか。
怒るか。
呆れるか。
憐れむか。
軽蔑するか。
そのどれも、御剣には耐えられない。
「じゃ、行こうか」
御剣の心の内など知らぬであろう成歩堂が、再び歩き出す。
彼の後に続きながら、近付いてくるエレベータホールに、御剣の心臓はドクドクと激しい動悸を繰り返す。
額に冷や汗が滲んできたが、表面上は何ともない風を懸命に装う。
しかし、その後すぐに、御剣は大きく目を見開くこととなった。
成歩堂がエレベータホールを横切り、ごく自然に階段へと向かったからだ。
立ち竦む御剣を、成歩堂は振り返った。
「最近、運動不足だからさ……ちょっと鍛えようかと思って。
君も付き合ってくれよ」
そんな風に言って、笑顔を見せる。
「……」
御剣は返すべき答えが咄嗟に出てこず、じっと成歩堂を見つめる。
成歩堂の瞳は凪のように穏やかだった。
そこには怒りも、嘲りも、呆れも―――そんな御剣が怖れるような感情は何一つ浮かんでいない。
きっと彼は分かっているのだ。
自分が未だに事件の影響で、エレベータに乗れないことを。
何も言わなくても、彼には悟られてしまっている。
そして静かに自分を見守っていくれているのだ。
そう思う同時に、御剣は自身が恥ずかしくなった。
そんな彼の気持ちなど思いもよらず、事実を知られてしまばきっと何らかの負の感情を持たれるものだとばかり思っていた。
成歩堂龍一がそんな男でないことは、自分が一番に理解していた筈なのに……勝手に疑心暗鬼に陥ってしまった。
結局自分自身が、成歩堂を貶めてしまっていたのだと気付いて、御剣は情けなくなる。
「成歩堂……すまない」
御剣が詫びれば、成歩堂はきょとんと目を丸くした。
「なんのこと?
あっ、もしかして僕に付き合って階段を上るのを拒否しているのかい?
うわーっ、友達甲斐のない奴だなぁ……」
そんな風に、ぼやいてみせる成歩堂に、御剣はふっと笑みを漏らす。
これもまた、彼の気遣いなのだ。
御剣に負担を掛けさせまいとしての。
「致し方あるまい……私も付き合ってやろう。
体力不足の弁護人に、審理の途中で息切れされても困るからな」
御剣もわざとそんな尊大な態度に出る。
謝罪などではなく、いつもの御剣であること―――それを成歩堂が望んでいると思ったからだ。
「よし!じゃぁ競争しよう!
どっちが先に君の部屋に辿り着くか。
負けた方が、今日の昼飯を奢ること!」
言って、御剣の返事も待たず、成歩堂は階段を駆け上がり始める。
「あっ、こら待ちたまえ、成歩堂!
大の大人がそんな子供じみた真似出来る筈ないだろう!」
などと嗜めつつ、何だかんだと御剣もそれを追う。
勝負と名のつくものを御剣が無視できないことを、成歩堂は知っているのだ。
御剣は成歩堂の背を追う。
いつも何処か陰鬱めいた気持ちで昇る階段も、今日は楽しい。
本当に彼には敵わない―――そう思いながら。
2007.05.03 up