君と
いう人は

法廷での長かった審理を終え、成歩堂龍一は被告人控え室のソファに大きな溜息と共に腰を下ろした。
その顔には色濃い疲労が浮かんでいる。
閉廷後の室内は静まり返っており、成歩堂以外の姿は今はない。
いつも扉に立っている係員もいない。
無理もない―――随分と審理は長引いてしまい、もう夜も遅い。

「はぁ、やれやれ……だな」
ぽつりと成歩堂は零しながらも、口元に笑みを刻む。
今日の法廷を思い返して、自然とそれは出てきたものだった。
検察席に立ったのがあの男でなかったのならば、これほど長引くことはなかっただろう。
そう―――御剣怜侍でさえなかったなら。

あの男の中に妥協という文字は一切ない。
僅かなりとも矛盾があれば、容赦なくこちらを攻撃してくる。
それは成歩堂とて同様ではあったが。
御剣と法廷で対峙する時には、少しも気を緩めるようなことは出来ない。
そんなことをすれば忽ち命取りになるのは分かりきっている。
一進一退の緊迫の攻防は、肉体的にも精神的にも多大な負担を及ぼす。
今日のところは成歩堂に軍配が上がったが、そんな疲労感が成歩堂の全身を支配していた。

だがそれは、決して嫌な疲れではない。
互いに全力でぶつかり合わなければ、決して真実は見えてこないと思う。
それが冤罪を生み出してしまうことになるかもしれない。
だからこそ決して手を抜かない御剣との対決は、疲れだけではなく、心地よい充足を齎しくれるのだ。

ソファに身を預け、何を思うのか成歩堂は目を閉じる。
そんな彼の耳に、コツコツとこちらに近付いてくる足音が届いた。
やがてそれはこの部屋の扉の前で止まり、声を掛けるでもなく扉は押し開かれた。
見回りの警備員だろうかと、成歩堂は薄っすら目を開く。
しかし成歩堂の予測は外れ、中に入ってきたのは、先程まで法廷で対決していた男だった。

「御剣……?」
彼ももうとっくに帰ったものだと思っていた成歩堂は、しっかりと目を開け、怪訝そうに眉根を寄せる。
何故こんな所にやって来たのだろうと。
まさか自分を探していたのだろうか。
しかし胸に浮かんだその疑問を、成歩堂はすぐに打ち消した。

紆余曲折を経て、二人は深い繋がりを持つようになった。
それでも公私の区別は互いにきっちりつけること、それは二人の間で暗黙の了解である。
検事、弁護士として事件を担当することが決まれば、それが終わるまで二人きりで会うことは決してしない。
そして裁判が終わったその日は、事後処理など様々な雑務がある為にやはり会うことはしない。
それに今まで検事と弁護士として対決していたものを、結審したからとて、すぐにその状況を正反対変えられるほど二人は器用ではなかったからだ。

声を掛けられた当の御剣は酷く不機嫌そうだった。
眉間に刻まれた皺が、いつも以上に深い。
負けたことを怒っているのか。
それはないなと成歩堂は自らの考えを一笑に付す。
そんな小さな男ではない―――御剣怜侍という男は。

「貴様……こんなところで何をしている?」
つかつかと成歩堂がいるソファの前に近付いてきた御剣が、成歩堂へと問い掛ける。
あぁ―――なんでか分からないけど、やっぱり相当怒ってるみたいだなぁ……。
成歩堂は心の内で小さく吐息を漏らす。

成歩堂のことを御剣が「貴様」という時は、大抵彼が成歩堂に対して腹を立てている証拠だ。
そんなことがなくても、御剣の問う声の低さと、見下ろしてくる険しい眼差しで分かることではあったが。
しかし、御剣が自分に対して怒っていることは分かっていても、その原因が成歩堂にはさっぱり分からなかった。

「何をしているのかと聞いている」
黙りこくったままの成歩堂に業を煮やしたのか、再度御剣の口から厳しい声が発せられる。
原因は分からぬままに、御剣の怒りを少しでも和らげようと、成歩堂はへらりと笑ってみせる。
「何っていわれても……ちょっと休憩しているだけだよ。
今日は君が相手だったし、随分疲れちゃったからね。
それに誰も居ない被告人控え室ってのも、偶にはいいもんだよなぁーなんて思ってさ」
だがその答えが気に入らなかったのか、ますます御剣の視線は厳しいものになる。
はっきり言ってしまえば、険しいを通り越して凶悪な面相になっている。
端麗な顔立ち故に、それは殊更に恐ろしい。

法廷でも滅多に見せることのないその表情に、成歩堂は流石に焦った。
だがいくら考えてみようとも、何がそんなに御剣を怒らせているのか思い当たることはない。
ここしばらく法廷がある為会っていなかったのだ。
怒らせる要因はない筈だ。

「御剣、何故そんなに怒ってるんだ?」
考えた所でわからないものなら、最早直接聞くしか手がないではないか。
「貴様は馬鹿か?
一体いつまでそうしているもりだ?」
しかし御剣は成歩堂の質問には答えようともせず、険のある言葉を投げつけてくる。
いつもの成歩堂であったなら、流石にむっとして言い返すところだが、今日はそんな気にもなれなかった。
「もうちょっと休んだら、僕も帰るよ。
何を怒っているのか知らないけど、僕のことは気にせず君も早く帰れよ」
「嘘を吐くな!
自分では立てないくせに、どうやって帰る気なのだ、貴様は!?」
怒鳴られて、ようやく成歩堂は御剣の怒りの原因に思い当たった。

「立てないって……何のこと?」
しかし成歩堂は意味が分からないというように、そらっとぼけてみせる。
だがやはりそれごときで、御剣を誤魔化せる訳もない。
「ならば今すぐ立ってみろ。
まっすぐ歩いてあの扉のところまでいけたならば、私はとっとと帰る」
「……」
言われて、成歩堂は黙り込む。
それが出来ないことは、なにより自分が一番分かっているからだ。

ここ数日間、風邪を引いたのかずっと体調を崩していた。
それでも休む暇などなく働いていたせいで、状態は悪化の一途を辿っていた。
今朝に至っては酷い熱が出て、眩暈と頭痛にベッドから起き上がることも一苦労だったのだ。
しかし法廷を休む訳にはいかない。
被告人は自分を信頼して、まさに人生を掛けて自分に弁護を依頼してきたのだ。
それを裏切るようなことなど出来る筈もない。

洗面台の前で、顔を洗い、しっかりしろと己を鼓舞する為に頬を叩く。
今日の相手はあの御剣だ。
一つのミスが大きな痛手となる。
自己暗示は得意な方だ。
大丈夫だと強く気合を込めれば、鏡に映った自分の顔は普段と何ら変わりなく見える。

そして実際法廷に立ってしまえば、不思議と体調の不調も何処かに消し飛んでしまったようだ。
きちんと思考は繋がるし、反証も出来る。
いつも通りの弁護が苦なく出来た。
その証拠に周囲の誰からも、自分の体調のことを指摘されることはなかった。

しかし裁判を終えると、気が緩んだのだろう―――途端に身体はいうことをきかなくなった。
それでも何とか事後処理を終え、帰宅しようとしたのだが、遂に限界がきた。
手近にあった扉を開けると今いるこの被告人控え室で、そのまま何とかこのソファに身を沈めたのだ。

どうやら御剣はその成歩堂の状態に気付いたらしい。
だが一体いつから気付かれていたのだろうか。
体調を崩してから成歩堂が御剣と顔を合わせたのは、さっきの法廷が初めてだ。
法廷での自分は普段と何ら変わらなかった筈なのにと、成歩堂は訝しむ。
御剣の態度もいつも通りで、散々火花を散らせたではないかと。

「何故そうも強がる……?
私の前でも君は本当の姿を見せてはくれないのか?」
先程までとは一変した哀しそうな声が、御剣の口から発せられる。
反射的に成歩堂は大きく首を振る。
違う、そういうことではないのだと。
「君だからだ……御剣。
君にだけは心配を掛けたくなかった」
御剣が周囲が思っているような冷たい人間でないことを、成歩堂は誰よりも知っている。
不器用ではあるが、優しい男であることを。
だからこそ自分のことで余計な心労を成歩堂は与えたくはなかった。

呆れた様子で、御剣は溜息を落とす。
「君のことで迷惑に思うことなどない。
私は今まで君に幾度も助けられてきた。
私とて君を助けたいのだ―――私にだけは無理をして自分を取り繕うのは止めて欲しい」
真摯な瞳が成歩堂へと向けられる。
自分とて御剣と立場を入れ替えてみれば、きっと寂しいし哀しいに違いない。
自分の前でだけは無理をしないで欲しいと成歩堂は思う。

「ごめん……」
ただ一言の成歩堂の謝罪に、全てを言わなくても通じだのだろう―――御剣はようやく表情を和らげた。
「分かってくれれば良い」
そのまま御剣は手を伸ばし、成歩堂の額に触れる。
そこで再び表情が曇る。
「ム……酷い熱だな。
医者に行こう、成歩堂―――嫌とは言わせんぞ」
最早そんな気持ちは更々なく、成歩堂はこくりと素直に頷いた。

ただ一つ疑問が残っている。
「どうして僕の体調のことに気付いたんだい?
誰にもバレてないように思ったんだけどなぁ……」
「他の誰に分からなくても、私には分かる。
法廷での君を見ていればな。
少し声が擦れているとか、動作がいつもに比べてやや緩慢だとか―――挙げれば限がない。
たとえそれがどんな些細な変化であっても、私の目を欺くことは出来んぞ、成歩堂龍一」
指先を鼻先に突きつけられて、成歩堂は思わず吹き出した。
「肝に銘じておきます、御剣検事殿」
冗談めかしてそう答えを返す。

やはり御剣怜侍という男は凄いと思う。
たとえこちらの体調が悪いことに気付いていても、法廷に立てば容赦はしない。
常通りの鋭い指摘で、こちらを全力で叩き潰そうとする。
それでいい―――否、そうでなければならない。
きっとそこで手を抜いて審理を早々に終了させるような人物であったなら、成歩堂は御剣を選びはしなかった。
プライベートでどんな関係であろうとも、法廷では対する弁護士と検事―――それ以外の何者でもないのだから。
それが二人の選んだ道。
そしてこれからも歩いていく道だ。
それを汚すような行為は赦されはしない。
そんな御剣を成歩堂は改めて尊敬すると同時に、好きになって良かったと感じるのだった。



2007.04.20 up